西田幾多郎と京都学派
埼玉県立蓮田高等学校 教職員研究会
2001年12月 執筆 (2022年7月 一部加筆)
目次
§1.幾多郎との邂逅
§2.随筆に見る生涯
§3.日記に見る人物
§4.人間形成の背景
§5.その哲学的魅力
§6.その人間的魅力
 
§1.幾多郎との邂逅
 石川県河北郡宇ノ気町の閑静な住宅地に「宇ノ気町立西田記念館」は存在する. ここには西田幾多郎の業績や人柄を偲ばせる遺品や遺稿が数多く展示されており, それらは専門家以外の者が見ても極めて興味深い. 殊に彼の自筆稿や遺墨には人間味が色濃く滲み出ており, 何度見ても感慨深いものがある. 多くの書籍に掲載されている彼の執筆中の写真と併せて, 未踏の思想領域で格闘しつつ一心に原稿を書き進めていく幾多郎の姿に想いを馳せるわけである.
 

執筆中の西田幾多郎
 
 ある時, 西田記念館の館長にお願いして幾多郎の肉声の録音を聞かせて頂いた. 慥か,「創造」と題する, 山本良吉との議論であったように思う. 詳しい内容は殆ど記憶していないのであるが, 熱心に議論する幾多郎の口調は「エスプリザニモオの多い人」と彼を評した深田康算の言葉を思い起こさせるものであった.
 
 また,「骨清窟」と幾多郎自身が名付けた彼の書斎も見せて頂いた. 書棚には様々な装丁の書物が雑然と並べられているのであるが, 和書よりも洋書が多いことに気付く. この書斎で思想を研究し, 同僚や弟子と議論したことを想うとき, 時代を超えて我々の心を打つものがある.
 

西田記念館に再現された骨清窟 (幾多郎の書斎)
 
 私は, 学生時代 (1991年) を初めとして, 1993年, 1995年, 1997年と, 過去4度に渡って西田記念館を訪れた. 彼の遺品や遺稿を見ていると, 心の内に新たな意欲や活力が涌き出てくるのである. 恐らく, そのようなものを求めて, 今後も度々この記念館を訪れるであろうと思う.
 

西田幾多郎記念哲学館 (2002年に新設されたもの)
 
 幾多郎に関する夥しい著作物から伺える通り, 彼は, 同時代に生きた者のみならず, 後世に生きた者達に対しても甚大な影響を与えた. 無論, その名を世界に知らしめた彼独自の哲学的業績に負う部分が大きいことは疑う余地がない. しかし, 時代を超えて多くの者達を惹き付ける彼の人間性がそれ以上に大きな部分を占めていることも事実であろう. 実際, 私は幾多郎の人間性に強く惹かれる者の一人である.
 
 無論, 年代的に見ても私と幾多郎とは直接的な関わりはない. それは即ち, 書物を媒介とする間接的な関わりに過ぎない. しかし, 幾多郎の生涯及び業績は, 現在の私の思想形成に少なからぬ影響を齎している. 本稿への導入として, 本節では私と幾多郎とを間接的に結び付けた書籍について簡単に記しておこうと思う.
 

 
 三木清の『読書と人生』を初めて手にしたのは, 私が大学に入学して間もない頃であった. 文学中心の読書から人文科学や自然科学中心の読書へと移行していた時期であり, 恐らくそのような読書傾向の中で手に取った書籍であると思われる. 読書に邂逅という言葉が通用するならば,『読書と人生』との出会いは正に邂逅と称するに相応しいものであった.『読書と人生』を通して哲学に対する興味, 延いては学問に対する憧憬を呼び醒まされたのである.「しんじつの秋の日照れば専念にこころをこめて歩まざらめや」と詠んだ三木に, 学問を志す者の真摯な学究姿勢を見たのであった.
 

三木清『読書と人生』新潮文庫
 
 本書においては三木自身が繙いた書物が百数十冊ほど挙げられている. それら一冊一冊を彼は大変に魅力的に紹介しているのである. 波多野精一西洋哲学史要』, 朝永三十郎近世に於ける「我」の自覚史』, 和辻哲郎古寺巡礼』, ヴィンデルバント哲学概論』, カント純粋理性批判』, フッサール論理学研究』などを私が興味をもって読んだのは,『読書と人生』においてこれらの書物が魅力的に紹介されていたからに他ならない. また, 田辺元, 深田康算, 内藤湖南, 河上肇, 阿部次郎, 九鬼周造, 谷川徹三, 戸坂潤など,『読書と人生』を通してその名を知った著名学者も少なくない.
 
 三木は「大学時代, 私は書物からよりも人間から多くの影響を受けた. (中略) それを私は甚だ幸福なことに思っている.」と書いている. 当時の大学における教授と学生の関係は現代から見れば極めて親密であり,
優秀な教授連の学究姿勢に触発されて勉学に励んだ学生達は確かに幸福であったと言えよう.
 
 しかし同時に三木は, その多くの読書を通じて習得した読書法をも詳細に記している. 現代においても読書法に関する書物は巷間に氾濫しているのであるが, 彼の読書法はその主要部分を網羅していると言って良い. それによれば,「規則的に読書する」こと,「一冊の原典を繰り返し読む」こと,「自分を高めてくれるような本を読む」こと,「個性ある文庫を整える」ことが大切であり,「正しく読むためには緩やかに」読み,「何物かを学ぼうという態度で」書物に対し,「自分で絶えず考えながら」読めという. いずれも至言である.
 
 その他, ここには書物を繙く際の心構えが丁寧かつ誠実に提示されている. 私は,『読書と人生』を通して三木清なる人物にも大いに関心をもつに至った. 書中に挙げられている『
語られざる哲学』や『パスカルに於ける人間の研究』は勿論,『人生論ノート』や『哲学ノート』や『構想力の論理』などを読むことになったのも,『読書と人生』に出逢えたからこそである. そのような『読書と人生』において最も魅力的に語られている人物は, やはり西田幾多郎その人であった.
 

 
 三木は, 一高時代, 幾多郎の『善の研究』を読んで哲学への道を決心したという. この書物を「私の生涯の出発点」と語る三木は, 幾多郎に就いて学ぶために, 一高から京大へという当時としては異例の進路を選択したのである. 三木は実際, 大学時代に『自覚に於ける直観と反省』を初めとする幾多郎の著作に最も大きな影響を受けたと述懐している. 幾多郎の論文に引用されている書物は,「一度先生の手で紹介されると, どの本も皆面白そうに思われ」たという. これは, 私が『読書と人生』において三木が紹介した書物に対する思いと対照的である.
 
 『読書と人生』には, 三木から見た幾多郎が少し詳しく記されている. 三木が最初に幾多郎の姿を目の当たりにしたのは, 一高時代に幾多郎が講演のために東京に上京した時であった.「初めて私は西田先生の謦咳に接した」という表現で描かれる講演の模様は,「自分で思想を表現する適切な方法を模索する」風であり,「
思索する人そのものを見た」と述懐される.
 

三木清 (1897-1945)
 
 大学に入学する直前, 三木は一高時代の恩師である速水滉の紹介状を持って京都の幾多郎宅を訪れた. その際, 大学の講義や演習について三木に話した上,『純粋理性批判』を三木に貸したらしい.「哲学を勉強するには先ず (中略) カントを読まねばならぬ」という幾多郎の見解は, 現代においては必ずしも多くの哲学者が肯定するものではないであろう. しかし私は,『読書と人生』の影響で, 当時の我が国における哲学界に漠然たる憧憬をもってこれを読んだ.
 
 三木が初めて幾多郎宅を訪問したこのときの状況について, 幾多郎の長女弥生の回想がある. 幾多郎は, 三木について「「今年一高の文科を一番で出た秀才で, 僕の講義を聞いて九月から京都の哲学科へ這入ってくる. 一高の速水君など大変賞めているので楽しみだ.」と言って大変嬉しさうであった.」という. 弥生は続けて, 本来ならば東大の「法科に這入って官途についたり, 実業界で羽振りよく等やるべき筈の人」が「京都へ来るとはよくよく特殊の方であると思って感激した.」と述懐している. (上田弥生『わが父西田幾多郎』弘文堂)
 

上田弥生『わが父西田幾多郎』弘文堂
 
 ここに, 三木の哲学に対する決心の固さが伺えるであろう. 同時に, 幾多郎の著作および講演が三木に対していかに大きな影響を与えたか, 幾多郎の人間的魅力がいかに大きなものであったかが伺えるのである.
 
 しかし, 実際に語り伝えられる
幾多郎の言動は, 一見すると近づき難い印象を与えるように思う. 三木は,「先生は自分から話し出されることが殆どなく, (中略) どんな質問をしていいのか迷って (中略) 遂に自分で我慢しきれなくなり「帰ります」と言うと, 先生はただ「そうか」と云われるだけである」と記している.
 
 また,「弟子たちの研究に対しては, 先生はめいめいの自由に任されて, 干渉されることがない」一方で,「先生は恐らく喜怒愛憎の念が人一倍烈しい方のようである.」という. とは言え,「誰でも先生の威厳を感じはするが, それは決して窮屈というものではない.」という見解も多くの弟子達に見られるものであるから, やはり
幾多郎には表面上の印象とは異なる何か強い魅力が存在したのであろう.
 

 
 今ここで『読書と人生』に述べられている幾多郎の人物について詳述することは控える. あくまでも, 三木による幾多郎の人物評がこれを読んだ私に少なからぬ興味を呼び醒ましたことを示したかったに過ぎない.
 
 西田幾多郎が学者としていかなる業績を残した人物かを知らなかった私であるが, 晩年においても尚,「愛宕山入る日の如く赤々と燃やし尽さん残れる命」と詠んだという幾多郎の学問への情熱に対して羨望感を禁じ得なかった.
 
 『読書と人生』に挙げられている幾多郎の著作は,『
善の研究』と『自覚に於ける直観と反省』の2作であるが, これらは他の哲学者の書物にも増して私にとって特に魅力的に映った. 実際,『読書と人生』読了後に私はこれらの書物を直ちに繙いている. こうして, 私の興味は三木と共に幾多郎へも向けられることになったわけである.
 
 三木は『善の研究』を「生涯の出発点」と見做した. 確かに, 思想家として活躍した三木の生涯を思えば, これは率直な心情であろう. 私にとっては『読書と人生』がこれに相当する書物であった. 無論, 三木のように自己の専門分野へ導かれた存在として挙げるべき書物ではない. その意味においては, 彼のように「生涯の出発点」と言い切ることに些かの躊躇を覚える.
 
 しかし, 私の思想上において大変に重要な役割を果たしたことは間違いない. 先述したように, 本書を通して
哲学に対する興味, 延いては学問に対する憧憬を呼び醒まされたのである. その意味において,『読書と人生』との邂逅は私にとって一つの事件であった.
 
 書物から啓発され, 考えさせられ, 日常の言動を無意識の内に支配される, このような書物を良書というのであろう.
良書に出会える機会は極めて少ない. 書物に限らず, 人物においてもそうである. それゆえ, このような書物や人物との邂逅は大変に貴重であると言える. 内面的に揺さぶりを掛けられ, 精神的成長を齎すそれらの存在は, 多様な価値観が横行する現代においては殊に重要視されて良い. 三木清の『読書と人生』の影響を受けた私は, そのようなものを求めて哲学に対する漠然たる憧憬を抱くことになったのである.
 

 
 さて, 本稿では,「西田幾多郎と京都学派」と題して, 西田幾多郎なる人物が, 学者あるいは教師として, 同世代や後世に対していかに多くの影響を与えたか, その人物と生涯, 及びその周辺の人間関係について紹介しようと思う.
 
 学者としての幾多郎については, その哲学的業績についても簡単に触れる予定であるが, 哲学に関しては門外漢たる私が彼の業績を述べたところで的外れの謗りを免れないであろう. 従って, それらについては部分的な紹介に留めるものとする. 教師としての幾多郎については,
職業としての教師よりも寧ろ人間としての教師に重きを置くべきであろう. いつの時代においても多くの者を感化してやまない幾多郎は, 多くの者にとって人生の教師と見做すべき存在であった. 私は幾多郎のこのような面についての叙述を試みよう思う.
 
 識者から見れば, 私のような素人がそのような作業をなすなど烏滸がましい限りであろう. しかし, 先述した如き動機によって書かずにはいられなかったというのが, 私自身の率直な心情である. 先述した通り, 固より幾多郎と直接的な関わりをもったわけではないから, 幾多郎について書くためには既に出版されている種々の書物に依拠する他はない. また, 叙述の重複, 前後等についても私の浅学菲才のゆえということでご寛恕を願いたい. 私の念願は, より多くの人々が西田幾多郎その人に魅力を感じ, 可能ならば《西田哲学》と固有名をもって称される彼独自の哲学の世界へと惹き込まれることこれに尽きるのである.
 

 
§2.随筆に見る生涯
 多様な価値観と多様な情報が横行する現代, 自身の生涯に影響を与える人物に出会うことは極めて稀である. そのような意味において,「書物からよりも人間から多くの影響を受けた」という三木清の時代と現代とは相当に隔絶していると言えよう. しかし, 自身の生涯に影響を与える書物に出会うことは, 幾分豊富に得られる. 文学にせよ, 伝記にせよ, 研究書にせよ, 古今の優れた書物に接し得ることは, このような現代にあっても尚, 我々の浴することができる数少ない幸福の一つである.
 
 前掲書『読書と人生』との邂逅以降に私が比較的多く読んだのは, 随筆であった. 無論, 随筆ならば何でも良いというわけではない. 巷間に目を向ければ, 日常の極ありふれた出来事を適当に脚色して読者の興味を引こうとする低俗な随筆集が蔓延している. このようなものを読んでも, 害にはならないにせよ得るところは何もないであろう.
 
 私が好んで読んだ随筆は専門分野を有する学者達のそれであった.
一つのことに専心する者が研究を離れた束かの間に書き記す文章には, その人の人間的魅力が少なからず滲み出る. 日常の些事に対しても個性的な見解を提示する彼らの随筆は, 読者を少なからず唸らせる力をもっているのである. 私は, 彼らの専門的な著作(論文)を通してよりも寧ろ, 随筆や雑文から感化されることが多かった. 彼らの影響力がいかに甚大であったかは, 多くの人の伝えるところである. 彼らは, 偉大な学者であると同時に偉大な教育者であった.
 
 私は, 彼らに対する漠然とした憧憬から, 及ばずながらも教職を選択して今日に至っている. 彼らとの間の少なからぬ隔たりを意識しつつも, 彼らに近づくべく, ささやかな努力を試みているわけである. そのような偉大な教育者の中でも, 西田幾多郎は特に私にとって重要かつ特異な存在であった.
 

 
 「囘顧すれば, 私の生涯は極めて簡單なものであつた. その前半は黑板を前にして坐した, その後半は黑板を後にして立つた. 黑板に向つて一囘轉をなしたと云へば, それで私の傳記は盡きるのである.」という有名なくだりを含む随筆『或敎授の退職の辭』(『西田幾多郎全集』第12巻) (以下, 西田幾多郎の著作は全てこの岩波書店版の全集 (第4刷, 1987-1989刊行) から引用する) を読んでみよう.
 

『西田幾多郎全集』岩波書店 (1987-1989刊)
 
 これは幾多郎が京都大学を定年退職する時の慰労会の模様を記したものであり, 幾多郎の随筆の中でも私が特に好むものである. 単なる退職時にあって一生涯を纏めてしまうには時期尚早とも思われるのであるが, 長年教職に携わってきた者がこれを辞す際には, やはりこのような感慨が生ずるものなのであろう. 生涯の前半を学生として過ごし, 後半を教師として過ごした幾多郎は, 自身の生涯を顧みてこのような趣深い表現をもって記しているのである.
 
 自身の生涯を顧みて「
極めて簡單」かつ「黑板に向つて一囘轉」で「私の傳記は盡きる」と言い放つところに, 幾多郎の人間性がよく表れているように思う. しかし, 後述するように, 幾多郎の生涯は決して簡単なものではなかった. それは寧ろ, 一般的な人間の生涯と比較して遥かに複雑かつ困難極まりないものであった.
 
 上記の文章の後に,「
併し明日ストーヴに燒べられる一本の草にも, それ相應の來歴があり, 思出がなければならない. 平凡なる私の如きものも六十年の生涯を囘顧して, 轉た水の流と人の行末といふ如き感慨に堪へない.」と続く. 幾多の労苦を乗り越えてきた幾多郎が自己の生涯を幾分の安堵と懐旧とをもって見ていることが窺えよう.
 
 「一本の草」の例は, マタイ伝の第6章30節「今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも, 神はかく装ひ給へば」(日本聖書協会『舊新約聖書』) が意識されているのであろう. ここに見られる
幾多郎の回想表現は, 彼の生涯と照らし合わせて読むとき, 一層の感慨を読者に与える. そのためには幾多郎の生涯を知らねばならないのであるが, これは淡々と容易に書き記し得るものではない. 一つの事柄に関しても種々の方面から多角的に記すべきものである.
 
 ここでは, 詳細には拘泥せず今少しこの随筆を読み進めてみよう. 幾多郎は「
私は北國の一寒村に生れた. 父母の膝下で砂原の松林の中を遊び暮した.」と続けている. 彼は1870年4月に父得登と母寅三の長男として誕生した. 生まれ育った地は, 本稿冒頭に記した西田記念館の所在地, 即ち現在の石川県河北郡宇ノ気町に他ならない.
 

宇野気駅前にある幾多郎の銅像

幾多郎の生家跡地
 
 「遊び暮した」と書かれているのであるが,『読書』(『全集』第12巻 ) という随筆に,「極小さい頃, 淋しくて恐いのだが, 獨りで土藏の二階に上つて, 昔祖父が讀んだといふ四箱か五箱ばかりの漢文の書物を見るのが好であつた.」という記述があるところを見ると, やはり勉学に対する興味は幼い頃から培われていたと思われる.
 
 将来の方向性を決定するに際して, 幾多郎は「
四高では私にも將來の專門を決定すべき時期が來た. そして多くの靑年が迷ふ如く私も此問題に迷うた. 特に數學に入るか哲學に入るかは, 私には決し難い問題であつた. 尊敬してゐた或先生からは, 數學に入る樣に勸められた. 哲學には論理的能力のみならず, 詩人的想像力が必要である, さういふ能力があるか否かは分からないと云はれるのである.(中略)併しそれに關らず私は何となく乾燥無味な數學に一生を托する氣にもなれなかつた. 自己の能力を疑ひつゝも, 遂に哲學に定めてしまつた.」と述べている.
 
 四高時代において, 彼が既に哲学か数学かの二者択一にまで将来の進路を決定している点が興味深い. いかにして哲学に対する興味を培ったかについては後に詳述することにして, ここでは幾多郎と数学について少し触れておこう.
 

 
 幾多郎が将来の進路の選択肢に数学を入れた大きな理由として,「尊敬してゐた或先生」即ち彼が個人的に就いていた北條時敬の影響は大変に大きい. 北條はやはり金沢に生まれた理学士であり, 後に東北大学や学習院の総長や院長を務めた人物である. 幾多郎がいかに北條を尊敬していたかは『北條先生に始めて敎を受けた頃』(『全集』第12巻 ) という彼の随筆からも如実に窺えよう. 近隣の数学教師を集めて微積分や行列式の講義をしていた北條を, 幾多郎は人からの紹介で知り得たらしい.
 
 「
先生から數學は云ふまでもなく, 英語の譯讀も敎はつた. 文學士の敎師よりも, 理學士であつた先生の譯讀の方がしつかりして居た. (中略) 其頃, 先生は人物といひ, 學力といひ, 全校學生の景仰の的であつた. 當時, 先生から敎えを受けたものは, 皆先生から多大の感化を受けた.」と幾多郎は記している.
 
 私はここに理想の教師像および生徒像を見るのである. 即ち, 生徒 (学生) は向学心に燃え, 各々の目的に向けて只管勉学に邁進する. 互いに啓蒙し合い, 励まし合い, 切磋琢磨していく中で, 真の友情を培うのである. その彼らを導くのは, 人物と言い, 学力と言い, 全校生徒の景仰の的たる教師集団である. 各々の教師の人格は荒削りであっても生徒に媚び諂うことは断じてない――. 後年, 多くの者を感化し尊敬を集めた
幾多郎は, その若き日に彼に感化を与え尊敬の念を抱かせた偉大なる教師との出会いを得ていたのである.
 
 「
先生は測り知られない樣な深い大きいものがあり, 非常に嚴格な樣で, その奥に何處かまた非常に暖いもののある人であつた. 併しその頃の私には先生は無口で, 磐石にでも突き當つた樣で, 話し苦い人であつた.」と幾多郎は述懐する. 彼の北條に対するこの表現は, 後に彼の弟子が幾多郎に対して用いた表現と対照的であろう.
 

北條時敬 (1858-1929)
 
 幾多郎をして唯一の恩師と言わしめるほど大きな影響を与えた北條の勧めであるから, 幾多郎が将来を決するに際して数学を選択肢に入れたのは寧ろ当然である. しかし, 北條が「詩人的能力が必要」と表現した哲学の方により大きな魅力を感じ, 数学を「乾燥無味」として見切りをつけているという状況がある.
 
 私が考えるところによれば,
ある意味では数学にも「詩人的能力が必要」であり, 決して「乾燥無味」なものではない. 無論, 幾多郎は北條を通して充分に数学の魅力をも味わっていたはずであるから, 畢竟, 幾多郎の哲学に対する関心と憧憬はそれを上回るものであったのであろう. 幾多郎がこの時点において哲学ではなく数学を選択していたならば, いかなる生涯を送っていたであろうか. 私はここに一人の人間の運命というものを深く感ずるのである.
 

 
 四高時代, 幾多郎は「靑年の客氣に任せて豪放不羈, 何の顧慮する所もなく振舞うた.」という. 私は, この記述において, 徐々に自我が芽生えて独自の見解をもって独自の境地を切り開こうとしていた若き幾多郎の姿を見る.『四高の思出』(『全集』第12巻 ) に記されているように, この時代に幾多郎は生涯の友人となる, 鈴木大拙, 松本文三郎, 藤岡作太郎, 山本良吉, 木村栄等に出会った. 互いに大いに叱咤激励, 切磋琢磨し合い, 各々が精神的な独立を図っていたのであろう.
 
 しかし, そのような中での言動が教師陣と衝突して幾多郎は学校を辞めざるを得ないような状況に陥ったらしい. この時代の幾多郎がいかなる理由で学校を離れたかについては後に述べる機会があるであろう. 無論, このような事態で消沈するような彼ではない.「
當時思ふ樣, 學問は必ずしも獨學にて成し遂げられないことはあるまい, 寧ろ學校の羈絆を脱して自由に讀書するに如くはないと. 終日家居して讀書した.」という幾多郎は, 学校を中退しても尚, 独力で学問と向き合う強靭な姿勢を見せている.
 
 とは言え, 高等学校を中退した幾多郎には, その後徐々に人生の暗い翳が落ちていく. 当時の所謂エリートコースから外れていくわけである. 大学も本来ならば本科に入学するところを選科に入学し, 前出『
北條先生の敎を受けた頃』にあるように「たうとう方向を誤つてしまつた, 選科などは學業の後れたものの入る所だ, 今から大學の入學試驗を受けろ」と北條時敬に叱責されたという.  
 
 「
當時の選科生といふものは惨じめなものであつた, 私は何だか人生の落伍者となつた樣に感じた.」と述懐する幾多郎の大学時代がいかに不遇であったかは,『明治二十四五年頃の東京文科大學選科』(『全集』第12巻 ) に詳述されている.「選科生と云ふものは非常な差別待遇を受けてゐた」のであり, 図書室でも「閲覧室で讀書することがならない」し, 本科生には許された書庫内書物の検索も許されなかったという.「先生を訪問しても, 先生によつては閾が高い樣に思はれ」,「高校で一緒にゐた同窓生と, 忽ちかけ離れた待遇の下に置かれる樣になつたので, 少からず感傷的な私の心を傷つけられた.」と幾多郎は語っている.
 
 後年, 多くの弟子たちが語ったような気性の烈しい幾多郎の性格に鑑みるとき, このような感傷的な幾多郎の姿は容易には想像し難いのであるが, これは彼自身の偽らざる心境であったのであろう.
 
 しかし, 独立心の強い幾多郎は, このような境遇にあっても「
何事にも捉らはれず, 自由に自分の好む勉強ができるので, 内に自ら樂むものがあつた. 超然として自ら矜持する所のものを有つてゐた.」という. 豪放不羈に振舞った高校時代とは異なり, 友人も得られず教授からも有益な教えを蒙ることなく, あくまでも独学で種々の学問を習得していったわけである. ここに見られるような独学独歩の姿勢が, 後年の強靭な思索と独自の哲学を産み出す契機となったのであろう.
 

 
 大学卒業後の幾多郎が歩んだ道も決して平易なものではなかった. 種々の紆余曲折や幾多の困難を経て, 漸く四高のドイツ語教師の職を得る. 所謂「黑板を前にして坐した」前半生から「黑板を後にして立つた」後半生へと移行したのである. この時代を幾多郎は「金澤に居た十年間は私の心身共に壯な, 人生の最もよき時であつた.」と回想している. 語学の他, 論理学, 倫理学, 心理学も担当した幾多郎であるが, やはり望む職は研究職であった.「多少書を讀み思索にも耽つた私には, 時に硏究の便宜と自由とを願はないこともなかつたが, 一旦かゝる境遇に置かれた私には, それ以上の境遇は一場の夢としか思へなかつた.」と回想している.
 
 この時代 (1902年) の日記 にも「
一級下級の教師に甘んじて厚く道を養ひ深く學を研む, 断じて余事を顧みず」とある. 大学教授の地位を切望しながらもそれが得られない現状, 決して満足ではないにも拘らず不断の研鑚を自己に誓う幾多郎の固い意思がここに見られるであろう. 日記によれば, この時代に幾多郎は驚くべき量の読書をこなしている. この夥しい読書と四高における講義の草案に基いて『善の研究』が執筆されたことに鑑みるとき, 幾多郎にとって, この10年間は大変に意義深い時代であったと言えよう.
 
 しかし, 同期に赴任した同僚が次々に大学へ転じていくに従って徐々に孤独感を深めていったことも事実である. 幾多郎自身も頻繁に転任の機会を窺っていたのであるが, 一年間の学習院教授を経て漸く京大への転任が決まった. それ以降は, 幾多郎の多くの弟子が記している通り研究者として優れた手腕を発揮していくことになる.
 
 「
屡, 家庭の不幸に遇ひ, 心身共に銷磨して, 成すべきことも成さず, 盡すべきことも盡さなかつた.」と述懐しているように, 幾多郎には, 家庭的にはそれほど幸福とは言えない, 否, 寧ろ不幸の連続といったような状況が生涯に渡って続いた. 妻や子に先立たれて人生の悲哀を充分に知り尽くした幾多郎は, 定年退職後, 愈々その本業において渾身の力を注ぐことになるのである.
 

 
 さて, この『或敎授の退職の辭』は, 幾多郎自身が顧みてその複雑多岐に渡る生涯を極めて簡潔に記した随筆として大変に興味深いものがある.「黑板に向つて一囘轉」なる形容は, 文字通りに受け取れば, 私を含め教職に就いた全ての者が該当するであろう. しかし私は, 幾多郎ほどの偉大なる教育者であり哲学者であるからこそ, このような単純な表現が相応しいように思うのである. 難解な表現で知られる論文と比較して, このように平易かつ単純な表現をもって生涯を記す幾多郎に, 私は更なる畏敬の念を抱く者である.
 
 『
或敎授の退職の辭』は「これは, 樂友館の給仕が話したのを誰かが書いたものらしい, 而もそれは大分以前のことであらう.」という添え書きで始まる. また,「彼は見掛けによらぬ羞かみやと見えて」あるいは「前の謝辭があまりに簡單で濟まなかつたとでも思つたか」などとも書かれており, いかにも幾多郎以外の人物がこれを記したかの装いである. 無論, これは幾多郎自身が書いたものに相違ないのであるから, 自己を語ることに対して幾らかの「羞み」が実際にあったのであろう.
 
 一方で, 最後の段落における「
彼は明日遠くへ行かねばならぬと云ふので, 早く歸つた. 多くの人々は彼を玄關に見送つた. 彼は心地よげに街頭の闇の中に消え去つた.」という記述には, 幾多郎の気取りのようなものも感ぜられる. とは言え, 自己自身あるいは自己の生涯を第三者の立場から客観的に記すという書法は, 幾多郎の哲学に通ずる独自のものであろう. 先述したように, 専門分野を有する者が研究を離れた束の間に書き記す文章には, その人の人間的魅力が少なからず滲み出る. 私は, 幾多郎の書き残した種々の随筆を読むたびに愈々この感を強くするのである.
 
 本稿では幾多郎の全ての随筆を紹介することはできないのであるが, 以下, 必要に応じて引用する随筆もあるであろう.
 

 
§3.日記に見る人物
 幾多郎の人物を顕著に表すものとして, まず遺墨が挙げられよう. 活字でこれを充分に表現することは不可能であるが,「先生の墨蹟も実に先生らしい独自な卓抜なものであって, 近くは良寛, 寂巌, 慈雲などに比肩すべく, 古くは, 懐素, 張旭, 楊凝式, 大燈などの塁を摩するものがあるようにさえ思われる.」という久松真一の表現がある. (唐木順三, 下村寅太郎他『西田幾多郎の書』燈影舎)
 

唐木順三, 下村寅太郎他『西田幾多郎の書』燈影舎
 
 幾多郎が書に親しむようになったのは, 京大を定年退職する前後の頃らしい. その哲学と同様, 書の研究に対しても大変に熱心であったようである. 内容は, 禅僧の言葉や四書五経の語句, あるいは宗教的背景を有するもの, 乃至は道義的教示を含むものが多く, 創作した漢詩や短歌なども含まれている.
 
 幾多郎は全部で800以上にも及ぶ書を遺したようであるが, そこに表した言葉に「
一日不作一日不食」がある. これは, 幾つもの書に見られる言葉であり, 幾多郎自身が自己激励の言葉としていたものである. 考えて書くことで哲学を構築した幾多郎にとって, 何も書かない日は極めて無為な時間を過ごしたように感ぜられたのであろう. また, 西田哲学の根底を貫く思想「物となつて考へ物となつて行ふ」や, 先に挙げた「愛宕山入る日の如く赤々と燃やし盡さん殘れる命」などの短歌もある.
 
 私は幾多郎の書に関して云々できるほどの見識はもち合わせていないのであるが,
高木貞治朝永振一郎といった理学者からも揮毫を切望されるほどであるから , 見る人に種々の感慨を起こさせるものであったことは間違いないようである. しかし, 無論, 金銭と引き換えにされたものは一点もない. 下村寅太郎は幾多郎の書について「先生の書には一定の「書体」なるものは存在しない. 揮毫の過程において, 揮毫を通して, 常に新しく形が作られる. (中略) 先生の思索が書くことによって, 書きながら展開するのに似ている.」と記している. (前掲書『西田幾多郎の書』)
 
 確かに, 生涯に渡る数多の書には様々な筆致が見られ, その都度, 内容や書体を模索しているといった印象を与えるように思う. このようなところにも幾多郎の生き様が明確に表れているのである.
 
 しかし, 幾多郎の
人物を知るには彼の日記や書簡を見るのが最も早いであろう. 彼がいかなる日々を送りいかなる境遇を得たか, そこでいかなる思索をもちいかなる感慨に耽ったかが如実に窺えるのである.
 

 
 幾多郎の『日記』(『全集』第17巻 ) はほぼ半世紀に渡って書かれている. それは, 折々の心情を長々と吐露するようなものではない. その日における特記事項のみを記すという際立った簡潔性を特徴とするものである. 一見, 備忘録の如き印象を与えるものであるが, 丹念に読んでいけば, そこには多くの自戒や啓発の言葉が書き連ねられていることに気づく. 固より公開や出版を前提としたものではない. それゆえ, これらの言葉は全て幾多郎自身が自己を律するために書かれたものであろう.
 
 上田閑照は,「
西田が日記に書くのは, その日に於ける自分のことではなく, 自分もそれを生きた (従って自分も含まれている) その日そのものと言うことができる.「物となつて考へ, 物となつて行ふ」と幾多郎が言う意味で, その日その日を物として単純に硬質に造形して完結する.」と記している. 私は幾多郎のこのような言葉から多くの感化を受け, 先述したように思想形成にも少なからぬ影響を蒙った. 殊に幾多郎の若き日の日記においてその影響が強い.
 
 幾多郎が北條時敬の招聘で山口高等学校に赴任した前年, 即ち27歳になる年 (1897年) から『
日記』は始まる. この年の日記は, その殆どがドイツ語で記されている. まず, この年の表紙見返し等には, 次のような言葉が (これは日本語で) 記されている.
 
 非凡の人物となり非常の功を成さんとする者は天地崩るゝも動かざる程の志と勇猛壯烈鬼神も之を避くる程の氣力あるを要す
 「何事も自分の考を立て自分之を行ふ他人に依附せず
 「人より勝さるには人に勝りたる行なかるべからず
 「他人の書をよまんよりは自ら顧みて深く考察するを第一とす 書は必ず多を貪らず 古今に卓絕せる大家の書をとりて縱橫に之を精讀す
 「
第一の思想家は多く書をよまざりし人なり
 「
讀書の法は讀, 考, 書
 「
一事を考へ終らざれば他事に移らず 一書を讀了せざれば他書をとらず
 
 その他, 下線が施されたラテン語句「
Non Multa sed Multum (広からねど深く)」もある.
 
 他人に向けた啓発の文句ではなく,
全て自己に対する叱咤激励のそれである. 後年, 偉大なる哲学者となる素地はこのような自警の言葉によって着々と養われていたのであろう.
 
 一方, 彼は未完成な自己及びそれに対する不満をも所々に (ドイツ語で) 書き綴っている. 例えば, 1月13日に「
Ich entschloss mich jeden Sonntag lateinisch zu lernen. (日曜毎にラテン語をやらむと決心したり)」と書き, 翌日には「Ich entschloss mich nicht lateinisch zu lernen. (ラテン語をやらぬことに決心す)」と書く. 1月22日に「Ich entschloss mich nachmittags Deutsches, nachts Philosophie und jeden Sonntag chineisch=japanische (午后は獨逸語, 夜は哲學, 日曜は習字をやることに決心せり)」と書き, 2月25日には「Ich entschied mich etwas franzosisch zu lernen. oh grillenhaft !!! (佛蘭西語を學ばんと決心す. あゝ, 何たる移り氣 !!!)」と書いている.
 

西田幾多郎『寸心日記』燈影舎
(上記独語の和訳部分を借用した)
 
 他にも同様の記述が何度となくあり, 後年の日記にも, 菓子を食すことを禁ずる記述や喫煙を禁ずる記述の後にこれに違反してしまった旨の記述が見られる. 私は, このような部分に, 完全な人格たる厳格な幾多郎ではなく, 極めて人間性に溢れた暖か味のある幾多郎を見る. これをなすと決心し日記に書きつけ宣言しつつも続かず断念することを繰り返す辺りは, 私自身にも思い当たる節がある.
 
 口述録音から窺えるように早口で捲し論ずる様子や, 歯に衣着せぬ物言い等と併せて考えると, 私自身の言動と幾多郎のそれとは極めて多くの一致点を有することに気付かされるのである. これは, 私が知らず知らずの内に幾多郎から影響を受けた結果とも考えられるであろう.
 
 裏表紙見返しには次のような言葉が並ぶ.
 「
猥りに人言を信ぜず
 「
熟考せざる事は云はず
 「
人と冗談して貴重の光陰を浪費せず
 「
人の惡言せず
 「
正しくて成さざるべからず事は他事を顧みずして其日に直に之をなす
 「一日のなすべき事はその日の朝之を定め必ず之を斷行す
 
 固より他者に読ませることを目的として書かれたものではない. しかし, これを
読む者にも襟を正したい思いを起こさせ, 多大なる啓発を与えるものである.
 

 
 この他, 日記の所々に記された幾多郎語録には次のようなものがある.
 
 「
人は馬鹿正直にあらざれば道を成す能はず
 「志を大にして小利小成を願ふべからず 大器晩成」(以上, 1898年)
 
 「心中ニテ讀書ノ時ヲ妨ゲタル士官ヲ冷遇セシ罪ハ懺悔スベシ
 「學問ヲセネバナラヌト云フ念ニ妨ゲラルヽ事多シ
 「讀書ハ多端ナラズ, 心ニ要スル問題ヲ求メテ硏究スルニテ足レリ」(以上, 1899年)
 
 「
讀書の際には頻りに急く心起り, 又名誉心など伴ひて心穏ならず, 大に猛省すべし.
 「
やはり急ぎ讀む風あり, 心に欲多ければなり.
 「心せくことかぎりなし. あゝ我何たる愚者ぞ
 「わが心の汚れて片時も定らざる樣, 數年の工夫も寸功なく誠に愧づべく嘆ずべし.
 「
何事も自己の力により他に求むべからず. 哲學も功名などの卑心を離れ自己安心を本とし 靜に硏究し, 自己の思想を統一し, 自家の安心と一致せしむべし.
 「
福澤先生逝き, 先生が獨立獨行, 人によらずして事をなせしを思ひ深く感ずる所あり. 大丈夫將にかくの如くならざるべからざる也.
 「
余の如きは日々に私欲の爲め此の心身を勞す. 慚愧々々. 余は道の思ふの志薄くして, 少欲の爲め又は些々の肉慾の爲め道を忘ること日々幾囘なるを知らず. 今後猛省奮發すべし. これも一に余が克己の意力に乏しきによる.
 「無用の談話すべからず
 「散漫に讀書すべからず
 「祈れ祈れ, すべての物をさゝげて, 名も利も學問も.」(以上, 1901年)
 
 「
學問は畢竟 life の爲なり, life が第一等の事なり, life なき學問は無用なり.
 「名利の念是れ吾心を亂し吾事を妨ぐるの仇敵 道もこれが爲に成らず學もこれが爲に淺し 急がば廻れ 功を成すに急なる者は大事を成す能はず
 「食ヒ眠リ子孫ヲ遺ス事ハ動物モ尚之ヲ能クス 人生豈此ノ如ク無意義ニシテ終ルベケンヤ 人ハ一生ノ力ヲ以て此ノ靈性ノ美ヲ發揮セザルベカラズ
 「汝ガ凡テノ肉欲ト無用ノ交際ニ費ス暇ヲ以テ修養ト學問トニ盡セ
 「
大丈夫事を成す唯自己の獨力之れ恃む 決して他人の力をからず 便宜の地位を求めず
 「専門の書は精讀熟考 其外博覽以て見識を廣くす 外國語は英獨二語にかぎる」(以上, 1902年)
 
 「
坐しても中々本氣になれぬ. 洋行がしたかつたり大學敎授になりたかつたりいろいろの事を思ひ, 又どうも身體が苦になりて純一になれぬ.
 「
余はあまりに多欲, あまりに功名心に强し. 一大眞理を悟得して之を今日の學理にて人に説けば可なり. 此の外の餘計の望を起すべからず. 多くを望む者は一事をなし得ず.
 「
禪を學の爲になすは誤りなり. 余が心の爲め生命の爲になすべし. (中略) 怠慢一事をなさずして (中略) 幾年を經過するも何の功あらん」(以上, 1903年)
 
 「之ヨリ强固ナル意思ヲ以テ定メタル所ヲ斷行スベシ. 古人刻苦光明盛大. 1, 修養. 2, 讀書, 3, 運動.」(以上, 1904年)
 

 
 日記の余白には, 幾多郎が研究したと思われる哲学者の名や, 彼が読んだ国内外の小説の名が多数挙げられている. 全てが記されているわけではないであろうから, これだけを見ても幾多郎がいかに多くの読書をなしたかが分かるであろう. また, 手紙の遣り取りや宅の行き来の相手として記された者には後に著名な人物となった者も多い. 彼らと幾多郎とがいかなる関係をもっていたかが如実に窺え, 幾多郎の日記はそれだけでも歴史的意義を有すると言えるのである.
 
 更に, 幾多郎は日記を付け始めた時代から坐禅を続けており, 日記にも夥しい数の「打坐」という記述が見られる. 終日打坐したことも少なくない. 後年の
強靭な思索は執拗なまでの打坐を通して培われたと言っても過言ではないであろう. これは仕事上でも家庭的にも決して幸福ではなかった幾多郎の必然的な行為であったのかも知れない.
 
 日記によれば, 幾多郎の父得登と妻寿美との不仲が原因で寿美が長女弥生を連れて突然の家出をし, 直後に離縁が決定している. 更ににその一週間後の日記を見ると, 四高講師を突如として罷免されていることが分かるのである. 幾多郎にとって極めて精神的に苦悩に満ちた日々であったであろう. 翌年に父親を亡くして後に寿美とは復縁するのであるが, その後も弟を日露戦争で亡くし, 次女幽子, 五女愛子, 母寅三, 長男謙を病気で次々に亡くす. その後も妻寿美を5年に渡る闘病生活の後に亡くし, 四女友子, 長女弥生をやはり病気で亡くすのである. 弥生を亡くしたのは幾多郎が死去する直前であるから,
彼は生涯に渡って身内の不幸に見舞われたわけである.
 
 いかに労苦の多い一生であったかが察せられよう. このような境遇における
幾多郎の悲哀と苦悩は, 日記の所々に詠まれた短歌に如実に表れている.『歌幷詩』(『全集』第12巻 ) から幾つか抜粋してみよう.
 
 まず長男の死去に際して
 「
すこやかに二十三まで過し來て夢の如くに消え失せし彼
 「
死にし子の夢よりさめし東雲の窓ほの暗くみぞれするらし
が詠まれた.
 
 また, 結核やチフスの娘たちと脳溢血の妻寿美とを看病する傍らに
 「
妻も病み子等亦病みて我宿は夏草のみぞ生ひ繁りぬる
 「
運命の鐵の鎖につながれて打ちのめされて立つ術もなし
 「
子は右に母は左に床をなべ春は來れども起つ樣もなし」 
 「
かくてのみ生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし
と詠んでいる.
 
 その他, 決して
幸福ではなかった幾多郎は, その寂寥感を悲痛なまでに繰り返し詠んでいる.
 「
しみじみとこの人生を厭ひけりけふ此頃の冬の日のごと
 「
わが心深き底あり喜も憂の波もとゞかじと思ふ
 「
なべて皆秋は淋しきものなるを分きて今年の秋はさびしき
 「
思ひ出の影は美しなべて皆うれしかりしも悲しかりしも
 「
世をはなれ人を忘れて我はたゞ己が心の奥底にすむ
 「
人は皆幸ありげなりこの思ひ誰と語らむ物足らぬ世や
等々――.
 
 短歌という表現形態は, 我が国特有の趣深いものとして多くの者を魅了し続けてきた. 日常における折々の情感や想像を色彩豊かに表現することで詠み手側の共感や臨場感を誘う独特の芸術が生ずるのである. 幾多郎の歌は, 歌人のそれとは異なる直接的な感動を与えるように思う.
作為的な装飾を一切もたない素朴な心情表現を含み, 彼の生涯と重ね合わせて詠めば一種独特の感慨が得られるのである. 幾多郎が詠んだ歌は200首を超え , そのいずれもが極めて平易な表現をもって充分にその心情を表している. 詠む者の心に力強く響く味わい深さをもっているのである.
 

 
§4.人間形成の背景
 幾多郎について種々の書物に証言されているところは, 強靭な思索によって産み出された彼の哲学と, 多くの同僚や弟子たちに影響を与えた彼の人格とである. これらは, いかにして形成されたのであろうか.
 
 幾多郎の祖父は, 大変に学問好きな人物であり, 土蔵に夥しい蔵書を有していたらしい. 先述したように, 幼い幾多郎が祖父の所蔵していた漢文の書物を読んでいたことは彼自身が随筆に記している. 西田家に伝わる文書『
過後帖』に幾多郎自身が書き残しているところによれば, 父親について「思ヒタチシ程ノ事, 貫カザレバ止メズ. 深ク意ヲ我等ノ敎育ニ用ユ.」とある. また, 母親については「義ニ固ク情ニ篤ク, 誠實, 勤勉, 厚ク佛ヲ信ズ. 余, 此母ニ負フ所多キヲ思フ」とある. 殊に, 母親の教育熱心さは並大抵ではなかったようである.
 
 幾多郎の長女弥生の回想によれば, 幾多郎の母親は「学者ほど天下の至宝はないと思つてゐる婦人」であり「色々な事を一人で考へてゐるのが楽みの様な人」であったらしい. 幾多郎には二人の姉が存在したのであるが, 次姉も女子師範に学び, 漢学者や数学者の家にも通っていたところに鑑みると, 両親の学問に対する思いと教育に対する熱心ぶりが窺えよう.
 
  小学校卒業後, 長姉の取り計らいで金沢に出た幾多郎は, 上級学校に進学すべく文学や数学を学んだ. その後,「
師範學校に入つた. 村では小學校の先生程の學者はない, 私は先生の學校に入つた」( 前掲書『或敎授の退職の辭』) のである. しかし, 幾多郎の生活は常に順境であったわけではない. 村の戸長を勤めていた父親は, 学校の設立や米の品種改良など種々の業績を残した人であったが, 種々の事業を手がける内に生活が徐々に荒んでいったらしい. これが家庭内不和の大きな要因となり, 幾多郎の心に暗い翳を落とすことになるのである.
 
 また, 当時流行したチフスに罹り, 学校を一年間休学せざるを得なくなった. 学業においては常に優秀であった幾多郎が, その学業において友人達から一歩遅れたことは, 彼自身にとって耐え難い屈辱であったに違いない. 併せて, 同じくチフスに罹っていた長姉を亡くしたことも, 彼の心に大きな衝撃を与えたことであろう. 幾多郎が
生涯を通じて肉親の死と向き合う運命にあったことは既に述べた. その最初がこの長姉の死である.
 
 幾多郎はこの時の心境を,『
「國文學史講話」の序』(『全集』第1巻 ) において「生來始めて死別のいかに悲しきかを知つた. 余は亡姉を思ふの情に堪へず, また母の悲哀を見るに忍びず, 人無き處に到りて, 思ふ儘に泣いた. 稚心に, 若し余が姉に代りて死に得るものならばと, 心から思うた」と回想している. 情に厚い幾多郎の人間性が窺えるであろう.
 
 とは言え, これら一連の事件は, 結果として幾多郎に師範学校を継続する意欲を失わせた. 師範学校休学中から新たに複数の先生に就いて勉学に勤しんだ幾多郎は, 更に深い学問の世界があることを知り, やがて石川県専門学校 (四高の前身) に進学することになる. ここで幾多郎は, 唯一の恩師北條時敬と出会うわけである. また, 同級生である, 鈴木大拙, 藤岡作太郎, 山本良吉, 木村栄とも出会った.
北條時敬から深い感化を受けた一方で, 同級生からも多大な影響を受け, 与えたことも見逃してはならない. 彼らは, 生涯に渡って互いの学問研究を評し合い, 切磋琢磨し合ったわけある.
 
 幾多郎自身が『
若かりし日の東圃』(『全集』第12巻 ) に述べているところによれば, 藤岡作太郎は「彼は學校では秀才であつた. クラスの三傑の一人と呼ばれてゐた. 何でもよくできた. 特に文章に秀でてゐた」という. また, 山本良吉は「單に秀才と云ふばかりでなく, 特異の一人物として嶄然頭角を見してゐた. (中略) 又辯論の雄でもあつた. 何事にも獨自の見を有つてゐた. 容易に人に屈しなかつた」(『山本晁水君の思い出』(『全集』第12巻 )) という. 彼らは「我尊会」や「不成文会」を結成し, 各々詩歌や文章を書き記して回覧, 批評し合った. 互いに思想を鍛錬し, 交友関係を深めていったのである.
 

 
 この時代の石川県専門学校は, 彼らのような個性的な人物が本領を存分に発揮できるような自由な学生生活を保証していたらしい. 彼らが後に優れた業績を挙げる人物になり得たのも, このような学生時代を経ていたことと大いに関係があるであろう.
 
 ところが, 森有札が文部大臣となるや否や, 専門学校は官立の第四高等学校に変わり,「
師弟の間に親しみのあつた暖な學校から, 忽ち規則づくめな武斷的な學校に變じ」,「我々は學問文藝にあこがれ, 極めて進歩的な思想を抱いてゐたのであるが, 學校ではさういふ方向が喜ばれなかつた. その上, 當時の我々から見ても學力の十分でない先生などあつて, 衝突することも多かつたので, 學校を不滿に思ふ樣になつた」という. (前掲書『山本晁水君の思い出』) 先述したように, 山本等と共に「何の顧慮する所もなく振舞うた」幾多郎は, 行状点欠落のゆえに落第を余儀なくされることとなった.
 
 当時の主導権は山本にあったらしく, まず山本が退学し, 続いて幾多郎が退校している. 無論, 幾多郎自身の奥底に潜む独立独歩の精神に基いての言動であろうが, 幾多郎は,
高等学校を中退して後, 人生における最初の挫折感を味わうことになる.
 
 独学にて学問を志した幾多郎は, 終日読書に耽ったせいで水晶体に混濁を生ずることとなり, 医者から読書を禁ぜられてしまった. 無聊に悶々とする彼がこの頃に読んだ歌には,
 「
故なくて唯さめざめと泣きし夜半知りぬ我まだ我に背かぬ
 「
雲はみな浮世に出でゝ山里に殘るは月と我となりけり
等がある.
 
 同級の藤岡作太郎や松本文三郎が大学へ進学する一方で, 幾多郎自身は種々の都合により勉学への道を遮断されてしまったわけである. 四高を中退した幾多郎には, 本科に対する正規の入学資格が与えられなかった. 選科に入学せざるを得なかった所以である. 北條に「
今から大學の入學試驗を受けろ 」と言われたところで, 受験資格を喪失した彼にはどうにも仕方がなかったわけである. ここにおいて幾多郎は, 我々には測り知れないほどの苦悩を味わったに違いない. それまで自己の思うまま豪放不羈に振舞ってきた幾多郎は, 否応なしに自己の不遇な人生を直視せざるを得ない状況に陥ったのである.
 
 生涯に渡って幾多郎を覆った悲哀と苦悩は, 山本良吉宛に書き記した『
書簡』(『全集』第17巻 ) からも如実に窺える.
 「
皆々大學の學者連なれは校帽燦として大學の二字天に輝きコルドン ボットンのセビロは翻々として風に飄ひ 小生如き浪人は共に歯するを得す」(1891年6月27日)
 「
小生等の方には毫も面白き講義なし. 」(同年10月6日)
 「
小生哲學を學び候も面白からず. 日に茫然として前途暗夜の如き心地致し居り候. 」(同年11月17日)
と記した幾多郎は, その不憫な境遇に絶望感を感じ,「
人生の落伍者となつた」のである.
 
 上の書簡からも窺える通り, このような状況の中で幾多郎が最も信頼を寄せていたのは, 同じく四高を退学した山本良吉であった. 退学後, 身体上及び経済上の理由から故郷に燻っていた山本は, 幾多郎に匹敵するかあるいはそれ以上の逆境に置かれていた.
山本と幾多郎は互いに激励し合い, 互いに援助し合いながら, 生涯に渡る友情を築いていくことになる. 実際, 幾多郎, 友人松井喜三郎に対して共同で山本の学資を援助することを働き掛けており, 山本は, 選科出身で就職口の見つからない幾多郎に対して県立中学の英語教師の口を準備しているのである.
 

 
 幾多郎を高邁なる哲学者, 偉大なる人格者へと育んだ素地は, 我々の想像を絶する苦境と我々の憧憬する友情とであったように思われる. 無論, 苦境を独力で乗り越えんとする幾多郎自身の強靭な意志の力が最も大きいことは看過してはならない. 実際, 後年の幾多郎は, 身辺が苦境や不幸に見舞われたときほど, 驚くべき克己心と勇猛心とをもって研究に邁進している.
 
 ここにおいて私は, 諸外国において, 貧しく不幸な境遇の出身でありながら, 不屈の精神をもってそれらを克服し, 後年に偉大なる政治家や芸術家となった種々の例を想起せずにはいられない. 無論, このような境遇が偉人を生むために必要であると見做すのは早計であろうが…….
 
 選科を卒業した幾多郎が就職する予定であった中学は, 赴任直前になって英文科出身の他の候補者を採用することに決め, 幾多郎を不採用とした. 当時にあっても就職難に見舞われていた選科出身者であるが, 最初から就職が内定していないならばまだしも, 就職直前になって内定を取り消された幾多郎の精神的打撃はいかなるものであったであろうか. 一応は大学を出た身でありながら, 叔父の家への居候を余儀なくされた幾多郎は, 焦りと苛立ちとに悶々としながらも, 自分のなすべき研究に没頭する他はなかった.
 
 北條や藤岡を介して就職口を探し続け, 彼が別の中学校分校に赴任することが決定するまでの約8ヶ月間, このような状況が続いたわけである. 後年の幾多郎が弟子たちの就職口を親身になって世話をしたのも, 自己の辛い体験を忘れなかったからであろう.
 
 ともかく, 漸く中学校に赴任した幾多郎は, 中学生の教育は自分には向いていないと感じつつも熱心に教育に打ち込み始めた. しかしこの学校は僅かな期間を経て廃校が決定し, 幾多郎は母校である四高に転ずることになる. 中学の教師から四高講師へと, 幾らかの良い境遇を得たわけである. とは言え, より深く研究に没頭できる環境を求める心は, まだ満足していなかった. 日記からも伺える通り, 幾多郎が目指したのは学者という立場であり,
教育者であるよりもまず研究者として立つことを切望していたのである.
 
 この頃の山本との書簡の遣り取りにおいて, 二人の考えを伺い知ることができる. 教育者として一生を歩むことになる山本は, 教育者でありながら学問研究に没頭するに相応しい環境や職場を求めるのは慎むべきである旨を幾多郎に書いた. このような忠告に対して幾多郎は,「
小生は之か爲め當校に對する熱心の分厘を減せす(中略)余は校にありては校の爲に盡し 家に歸れは學理の爲に盡す 唯一日も無益に消せさん樣存し居り候」(1895年10月26日) と書き送っている (『全集』第18巻 ).
 
 彼らと同じ教職に就いている私自身も, 両者の見解はいずれも極めてよく理解できる. 確かに, 研究に没頭したりそのような環境を求めるあまり, 公務を等閑にしてこれに支障をきたすことは断じて許されることではない. 一方で, 公務に没頭するのみで自らの向学の機会を等閑にすることもまた, 教育者としては許されざることであろう.
 
 幾多郎は, 自己の能力のもてる力を最大限に活かそうとしたのであり,
学校においては教育者として, 家においては研究者として, いずれも倦まず弛まず精進しようとしたのである. 幾多郎が, 四高の単なる一教育者としての地位に留まることに甘んじていたならば, 後年, 優れた哲学者として彼の独創的な哲学を構築することも優れた教育者として著名な弟子 (哲学者) たちを世に輩出することもなかったであろう. 幾多郎における教師像は, このようなところからまずその一端が垣間見られるのである.
 

 
 さて, 先述したように, 幾多郎は父得登と妻琴美との家族関係悪化の結果として離婚させられ, その一週間後には, 校長への批判的言動が見られたゆえか, 四高講師を突如として罷免されるという憂き目に遭う. 既に山口高等学校の校長を務めていた北條時敬に招聘され, 単身で山口へ移った幾多郎は, ここで禅に対して全身全霊を傾け, また夥しい読書と思索を通して自己を深めていった.
 
 殊に, 過去の
偉人たちの伝記に強い感銘を受け, また, 聖書を通してキリスト教精神にも強く心を動かされたようである. にも拘らずキリスト教の信仰には入らなかった所以は, 禅に対する思いがよほど強かったか, あるいは身近にいたキリスト者の言動に納得せざる部分を感じていたからであろう. 実際, 山本良吉宛の書簡に「余は宗敎の事は敎へたりとも中々信するものにあらす 漸を以て感化するにあり 耶蘇敎の人は注入を主として自分の信仰箇條の如き者を直に未信者に話すの弊あり かくの如くしては容易に人を内心より導く能はす 其喜ふ所悲む所につきて同情を表し啓發的に先つ宗敎の欠くへからさるを知らしめ 而して後之に救濟の敎を與ふへしと思ふ」(1901年2月19日) と書いている.
 
 一方で, 禅に対しては強靭な意志と努力とをもって修行に励んだらしい. これは, 単なる精神修養のためなどというレヴェルではなく, 殆ど自己の全生命を賭けていたと言っても過言ではない. 先述したように, 日記にも参禅に関する記述が非常に多く現れるのであるが,「
禪を學の爲になすは誤りなり. 余が心の爲め生命の爲になすべし.」という記述に彼の禅に対する強靭な意気込みが如実に伺えるのである. この頃の幾多郎は, 厳格に自己反省を促し, 常に自己を叱咤激励しつつ自己の精神的な深化に努めていたわけである. これは, 四高校長に転じた北條に就いて四高教授として再度金沢に戻った後, 幾多郎の奥深い教師像となって愈々表れることになる.
 
 後に幾多郎が「金澤に居た十年間は私の心身共に壯な, 人生の最もよき時であつた.」と回想したように, 彼はようやくその本領を発揮できる環境を得た. 父の死後, 琴美とも縁りを戻した幾多郎は, 家庭のみならず恩師や同僚にも恵まれるようになり, 教育と学問に打ち込めるようになったわけである.
 

幾多郎が教授を務めた旧制四高 (現 四高記念文化交流館)
 

四高の教室内部
 
 北條の勧めによって三々塾も開いている. これは幾多郎自身の言葉によれば,「思想問題について考へる樣な學生が, 少數起居を共にして, そんな問題について話し合ひ, 生涯の友を作るための合宿所」(『堀維孝君の「四高三々塾について」を讀みて』(『全集』第13巻 )) のようなものであったらしい.「高等學校時代が自分といふものゝ出來る頃である. その時の友人關係といふものが, 如何に人の生涯に大なる影響を有つものかといふことを思はざるを得ない. 無論その頃に立派な先生でもあるならばその感化は生涯忘れ得ないものであらう.」と考える幾多郎は, 学生達に向かって月々精神的な話をしたようである. 学生達が互いに切磋琢磨したであろうことは無論であるが, 幾多郎のような教師から受けた学問的精神的感化もまた計り知れないものがあるであろう. 学生達は幾多郎を “Der Denken” (考える人) と綽名していたという.
 
 幾多郎が学生の一人である河合良成宛に書いた書簡に次のような文面がある.「
書を讀み又は自分で考へて分らぬ所に至れば必ず骨打つて靜に精細に考へて見るべく候 (中略) 人に敎へられたのでなく自分の力で一の事が解せらるれば十の事が解せらるべく候 又自分が力を盡して考へ自分で判斷しゆくやうにすれば始は實に六ヶ敷とも其中遂に自信を生じオリジナリチーも出てくる者に候 (中略) 人格の修養は猛烈なる意思を養ふと共に人生に對する高尚なる見識を養ふ事を怠るべからずと存じ候 深遠なる知見なき猛意思は暴にすぎず候 (中略) 人格の修養は高尚なる人士に接すると古賢の書を讀むにあり」(1908年1月7日)
 
 ――このように説く幾多郎は, 学生の自発的な自己啓発を促すという指導方針を採っていたらしい. 同時にこれら一連の言葉は, 自分自身にも向けたものであったに違いない. 幾多郎は
常に自己の能力や意思を高めることを意識し, そのために不断の研鑚を積んでいったのである.
 

 
§5.その哲学的魅力
 種々の紆余曲折を経て, 幾多郎はようやく京大 (京都帝国大学) へ転ずることを得た. これは, 友人である松本文三郎や山本良吉の尽力によるものであった. 後年の幾多郎が弟子達に対して並々ならぬ手間と配慮とを惜しまなかったのも, 幾多郎自身が折に触れて友人たちからの尽力に肖ったからこそであろう. 京大に職を得てからの幾多郎は, 愈々彼の本領を発揮することになる. 哲学者としての本格的な研究や著述をなす一方で, 人格者として多くの同時代人達を感化していくことになるのである.
 
 ここで, 我が国の当時の哲学界の状況について簡単に触れておきたい. 幾多郎は, 後に教授となって定年退職をするまで, 全国から優秀な研究者を招聘したり優秀な弟子や学生を育成したりして, 京大哲学科の華やかな一時代を築くことに大きく貢献した. この時代の (弟子達を含めた) 一連の研究者のグループが, 所謂「京都学派」にほかならない.
 
 当時, 東大 (東京帝国大学) 哲学科には哲学界の大御所とも言うべき井上哲次郎がいた. しかし, 夏目漱石や長与善郎の小説でもこの人物が「井の哲」と揶揄されているように, 西洋哲学の研究, 輸入に留まる当時の東大における学究姿勢には, 京大におけるそれのような旺盛な学問形成の意欲が伺えなかった. 一高の卒業生は東大に進学することが当然であったにも拘らず,
本気で哲学を学ぼうとする学生は, 幾多郎がいる京大へ進学するようになったわけである.
 
 ここで, 幾多郎が「独創的な哲学を築いた」とはいかなる事態を指すのであろうか. 幾多郎以前にも, 西周や井上哲次郎といった所謂「哲学者」は存在していたのであるが, 彼らの場合は, ミルは斯く考えた, スペンサーは斯く述べた, というように, 西洋哲学の潮流を我が国に紹介したに過ぎず, 彼ら自身がそれらに対抗し得るような独自の哲学を生み出したわけではなかった.
幾多郎は, 西洋哲学の動向を充分に踏まえた上で, 例えばキリスト教に対するヘーゲルの姿勢と同様に, 様々な形で存在する東洋の宗教に焦点を当て, 彼独自の「独創的な哲学」を創造した. その意味において, 幾多郎は真の「哲学者」と呼べる最初の人物であったわけである.
 
 
ところで, 京都「学派」という呼称から想定されるのは, その中に何か中心となる学問があり, 常にこれを軸として形成, 発展する学問形態の存在であろう. しかし, この「京都学派」に関しては, そのようなものがそれほど明確に存在するわけではない. ここでいう「京都学派」は, 厳密に「学派」と称するに相応しい団体というわけではなく, 寧ろ京大に属して幾多郎から直接的間接的な影響を受けた者の集合というような意味合いの方が強いように思われる .
 
 幾多郎が「京都学派」のような一連の優秀な研究者グループを形成することになった所以, 即ち西田幾多郎その人の人間的魅力については次節に述べることとし, ここでは彼の哲学について概観しておこうと思う.
 

 
 哲学者としての幾多郎は, まず, 四高教授時代から得ていた着想をもって『善の硏究』(『全集』第1巻 ) を上梓した. これは, 彼が41歳の年即ち1911年に弘道館より出版され,「純粋經驗を唯一の實在としてすべてを説明してみたい」という序文 の通り, 経験を基として日本人として最初の (西洋哲学の受け売りではない) 哲学を築いた書物であった. 冒頭に述べた通り, 三木清はこの書物によって哲学への道を開かれたのであり, 彼に限らず, その後多くの若者達に多大な影響を及ぼすことになるわけである.
 
 例えば, 倉田百三は, 次のように書き記している.「私は何心なく其の序文を讀み始めた. しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた. 見よ!「
個人あつて經驗あるにあらず, 經驗あつて個人あるのである. 個人的區別よりも經驗が根本的であるといふ考から獨我論を脱することが出來た.」とありありと鮮やかに活字に書いてあるではないか. 獨我論を脱することが出來た?! 此の數文字が私の網膜に焦げ付くほどに强く映つた. 私は心臟が止まるかと思つた. 私は喜こびでもない悲しみでもない一種の靜的な緊張に胸が一ぱいになつて, それから先がどうしても讀めなかつた. 私は書物を閉ぢて机の前に凝と坐つてゐた. 涙がひとりでに頬を傳つた. 」(倉田百三『愛と認識との出發』岩波書店)
 

倉田百三『愛と認識との出發』岩波書店
 
 この書物は, 出版以来, 哲学徒以外の人々によっても読み継がれ, 特に終戦直後の物質的精神的混乱期にあっては, 種々の読書調査において上位にこの書物が挙がってきている . 無論, これは, 全ての者が真にこの書物の内容を理解してのことであるとは思われない. 内容的には, 素人が通読して直ちに理解できるようなものではないからである. しかし, 局所的には大変に難解な印象を与えながらも, 大局的には深い感銘を与えるという性質は,『善の硏究』に限らず, 幾多郎の他の書物及び彼自身の人間性に関しても通ずるところであろう.
 
 次の著作である『
自覺に於ける直觀と反省』(『全集』第2巻 ) は, 彼が47歳の年即ち1917年に,『意識の問題』(『全集』第3巻 ) は, 彼が50歳の年即ち1920年に, 各々岩波書店より出版されている (以後の著作は全て岩波書店より出版された). また, 53歳の年即ち1923年には『藝術と道德』(『全集』第3巻 ) を, 57歳の年即ち1927年には『働くものから見るものへ』(『全集』第4巻 ) を上梓した. ここまでが彼の京大時代の著作である. 彼の旺盛な研究意欲, 執筆意欲は, 定年退職後に益々盛んになった.
 
 まず, 60歳の年即ち1930年に『
一般者の自覺的體系』(『全集』第5巻 ) を, 2年後には『無の自覺的限定』(『全集』第6巻 ) を刊行している. 63歳の年即ち1933年には『哲學の根本問題』(『全集』第7巻 ) を, 翌年にはその続編を上梓した. この後, 1935年, 1937年, 1939年, 1941年, 1944年には,『哲學論文集』第一, 第二 (以上,『全集』第8巻 ), 第三 (『全集』第9巻 ), 第四, 第五 (『全集』第10巻 ) を次々に出版しているのである. 最後の第五が出版された年は, 逝去する前年であった.
幾多郎は, 死の直前まで自己の思索と格闘しつつ研究や著述活動に励んでいたわけである.
 
 幾多郎はこれらの著作を通して何を主張したのであろうか. 以下, 私が理解した範囲に限るが, 西田幾多郎の思想について簡単に触れておこうと思う.
 

 
 『善の硏究』は, その序文にある通り,「哲學的硏究が其前半を占め居るにも拘らず, 人生の問題が中心であり, 終結であると考へ」て書かれ,「我々人間は何を爲すべきか, (中略) 人間の行動は何處に歸着すべきかといふ樣な實踐的問題」を考察の中心とした書物である.
 
  そこでは, 哲学史倫理学史上に現れた種々の学説を比較検討した上で,「
善とは理想の實現, 要求の滿足である」即ち「最も深き自己の内面的要求の聲」に基づく「自己の發展完成である」と結論づけられる. あるいは,「自己の知を盡し情を盡した上に於て自己の眞人格を實現する」ことが「我々に取りて絕對的善である」とされ,「唯一實在の活動あるのみなるに至つて, 甫めて善行の極致に達する」とされる.
 
 更に,「
個人の善といふことは最も大切なるもので, 凡て他の善の基礎となる」とされ,「能く自分の本色を發揮した人が偉大で」,「社會の中に居る個人が各充分に活動して其天分を發揮してこそ, 始めて社會が進歩する」と書かれる. 加えて, 幾多郎は,「幸福は滿足に由りて得ることができ, 滿足は理想的要求の實現に起る」のであり,「善は幸福である」とも述べている.
 
 以上のように幾多郎の主張する根拠として, 前半では「純粋經驗」に基づく「實在」論が展開される. また, 後半では彼が「
哲學の終結と考へて居る」という「宗敎」について詳しく論じられる――.
 
 私が三木清による影響下で『
善の硏究』を最初に読んだのは学生時代であった. 人はいかに生きるべきかを示す指針が具体的に記されたこの書物が, 三木清や倉田百三を初めとする多くの若者を魅了したであろうことは容易に想像できる. しかし, 私自身はと言えば, 残念ながら, 三木の『読書と人生』を読んだときほどの深い感慨は得られなかった. 幾多郎の主張する「善」は, 一つの倫理観あるいは道徳としては理解できる. しかし, それ自体は単に彼の信条または信仰に過ぎない (論理的な根拠に乏しい) ように感ぜられ, 理屈としては納得できない部分が多かったのである.
 
 その観点で言えば, 主客未分の意識の厳密な統一状態即ち「純粋經驗」を論じた冒頭部は比較的理解しやすい. しかし, 直後に登場する「
知的直觀」や, 後半の宗教論に至ると, キリスト教や仏教を基軸とする汎神論的な「」や「」など, 彼の信仰心を全面に押し出したような記述が続くため, 彼の主旨は理解できるが, 理屈としては納得しかねるものが多くなる.
 
 従来の多くの学説や思想を, 彼の主張の根拠が「
説明ができぬ」という理由で排斥する一方,「説明と云ふのは更に根本的なる直覺に攝歸し得るといふ意味にすぎない」として, その根底に「知的直觀」を置く.「故にいかなる論理の刃も之に向ふことはできず, いかなる欲求も之を動かすことはできぬ」という.「學問道德の本には宗敎がなければならぬ, 學問道德は之に由りて成立するのである.」という結語に至っては, かなり強引で唐突な印象を受けた.
 
 これは, 神学者が「神」の存在を主張する論法に酷似している. 例えば, バルトやティリッヒなどは,「神」は, 人間側の観念や思惟を超越した領域に「確実に存在」する「絶対他者」であると主張する. バルトは「正しい信仰なくして正しい認識は存在しない」(安積鋭二・吉永正義訳『知解を求める信仰』新教出版社) と述べ, ティリッヒは, 哲学の神のように「人間の思考に取り込まれた神」は「神ではない」, 本当の神は,「(人間が祀り上げた偶像的な) 神を超えた (絶対的な高みに存在する) 神」であると述べる (谷口美智雄訳『存在への勇氣』新教出版社).
 

バルト『知解を求める信仰』新教出版社 (新版)
 

ティリッヒ『存在への勇氣』新教出版社
 
 彼らの論法は, 私にとっては単なる強弁か詭弁としか思われない.「人間の思惟を超越し」ているはずの「絶対他者」を彼らがこのように正しく「認識」しうるのであれば, 彼らは自らを「本当の神」側の領域に入り込ませていることになり, 彼ら自身が神と化している! さもなければ, 彼らの主張する神は「人間の思考に取り込まれた神」に過ぎず, そのような神は (彼らが主張する通り)「神ではない」という自己矛盾に陥る.
 
 固より, 宗教なるものは理屈で理解しうるものではないと言われる. しかし, 例えば, バルトの『教会教義学』やティリッヒの『組織神学』などは「学」として, 幾多郎の『善の硏究』は「硏究」として,
信仰をもたない者にも論理や理屈で理解しうる議論を展開するのでなければ,「学」や「硏究」たる資格をもたないのではないか.
 
 門外漢の廉で的外れな批評であるかも知れないが, これが私自身が『
善の硏究』の読了後に抱いた率直な感想であった. ……とは言え, 理屈に拘泥せず素直に読み進めるとすれば,『善の硏究』における (上記のような) 幾多郎の主旨は, やはり多くの人々を感化し, 生きる力を与えたであろうことは疑いがない. 
 

 
 次著『自覺に於ける直觀と反省』では, 前作において「嚴密なる純粋経験の立脚地よりしては、何處までも區別することはできない」されていた「純粋經驗」と「思惟」が, 各々「直觀」と「反省」に類別され, 両者はその「内的結合たる自覺の立場から」より詳細に考察されている.
 
 ここでは,「
我々は時々刻々に移り行く經驗を先づ自己の意識範圍内に於て一般化し, 次に之を社會的經驗に於て陶冶し, 最後に所謂理性に依つて純化し, 全然人格的要素を除去して所謂物理的世界なるものが構成せられ」,「我々の自覺的經驗に就て考へて見ると, 我が我を反省する所, 卽ち我が働く所, そこが我の現在である.」と主張される. 更に,「自覺に於ては「知る」といふことは「行ふ」ということであり,「行ふ」といふことは「知る」といふことである.」という. これについては,「一々の意識は行爲であると共に直に反省である (中略) 物を離れて影はないが影を離れて物はない, 知卽行行卽知である.」と補足される.
 
 ここには, 後年の論文に現れる「
場所」や「行爲的直觀」や「絕對矛盾的自己同一」の一端が垣間見えるであろう. とは言え, 前作『善の硏究』と同様,『自覺に於ける直觀と反省』においても, 幾多郎の議論の進め方はやはり主観的かつ主意的で論拠に乏しいものに感ぜられた. とは言え,『自覺に於ける直觀と反省』では,『善の研究』のような宗教的信仰心の類はかなり抑制されている. そのため, 幾多郎の主旨はより明確であり, 読んでいて興味深い部分が多い.
 
 例えば,『
善の硏究』において「獨我論を脱することができ」たとする根拠を「純粋經驗」に置いた幾多郎は,『自覺に於ける直觀と反省』では, この事情を具体的に述べている.『善の硏究』の序文にある「個人あつて經驗あるにあらず, 經驗あつて個人あるのである」を読んだ限りでは, 学生時代の私が日頃から考えていた事柄と合致するものかどうかの確信がもてなかったのであるが,『自覺に於ける直觀と反省』における以下の記述を読んで初めて, その合致することにハッとされられたのであった.
 
 「
自分の意識内容といふも特に「私の」といふべきものはない, 意識せられた内容はすべて一般的である, 唯或意識内容の發展作用に伴ふ意識が自己と名づけられるのである.
 「
我々が外物を知るといふのは, 自己の經驗を一般的自我の立場に立つて見ることである, 一方から見れば自己の經驗を一般化することであつて, 一方から見れば一般的なものが己自身を實現するのである.
 「
我々の個人經驗の範圍内に於ては, 我々の自己が實在の中心であつて, 我々の身軆はその射影たる「我の生命」を中心として働いて居ると考へることもできるが
 「
生物の生命といふのは (中略) 實在の一部分の具軆的味方に過ぎない.
 
 
私自身が日頃から考えていた疑問に対する一つの回答とほぼ同様の回答がここにあった! その疑問とは次のようなものである. 私が小学校低学年の頃に不図抱いた疑問, 即ち「自分って誰なんだろう?」――. 当時, 母親に問いかけた記憶があるが,「自分は自分に決まっているでしょ」と一蹴され,「そういうことじゃなくて……」と, 質問の意味を理解してもらえないことに大いに失望させられた疑問――.
 
 当時の幼い私が問いたかったことを現在の私が翻訳すると, それは,
何故, 自分=坂田雅弘と呼ばれている人間 (の生命や意識) が, 今この瞬間この場所で「この身体」の中に存在しているのか, ということであった. 仮に自分ではない別の意識 (脳や心) が入り込んで数年間生き続けたとしても, 他者から見れば同一の「坂田雅弘なる人物」として違和感なく映るであろう「この身体」の中に存在する「自分」とは何者であるか.
 
 幾多郎による上記の主張や彼の後年の論文を勘案して言えば,
「自分」を出立点として考察すると, このような (解決不能な) 疑問が生じる. 実際には, 誕生した或る身体 (生命体) が於いてある場所としての社会環境と相互に影響を及ぼし合いながら種々の経験を蓄積する成長過程の中で, 身体の中に「自分」の意識なるものが形成されると考えるべきである, と解釈できる. 即ち,「坂田雅弘」なる固有の意識が入り込んで「この身体」が形成されたわけではなく, 長年の経験の中でその身体を独自に活動させる主体として「自分=坂田雅弘」なるものが意識されるようになった, と考えられるのである.
 
 とは言え, 幾多郎の主張は私が抱いた疑問の全てに対して回答しているわけではない. それゆえ, 私自身は引き続きこの問題を抱き続けながら生きることになるであろう.
 

 
 さて, 本稿の趣旨から言えば, 門外漢である私が西田幾多郎の論文に関して詳述することで紙数を費やすべきではないであろう. 以下, その後の幾多郎の論文について, 簡単に触れるに留めよう.
 

 前作においては「
自覺」を根源として考察したが,『働くものから見るものへ』において, 幾多郎はそれを「場所」に求めた. 自己を反省し自己を顧みる自覚が作用する場として, 全てを包摂する「場所」を「於いてあるもの」として捉えたわけである. 幾多郎は, この後, 場所の種々の段階を論じ, 自己を無に帰して, 全ての場所の対立を成立させる (あるいは全ての対立を無に帰する)「絕對無の場所」を提示した. 全てのものを自己自身の内に含み, 自己自身を限定することで, 種々の具体的な場所として対象と自己との作用や自己の意識作用が生ずると説明される.
 
 以上の幾多郎の手法に見られる通り, 彼の哲学は,
ある概念を通して種々の作用を考察するうち, その概念自体が作用する場としてさらに深化した概念を提示する必要に迫られ, 遂にこれ以上深化し得ない概念に達するように進められて行く. この「對無の場所」は, 既存の西洋哲学には存在しなかったものであり, 旧来の東洋思想に通ずると考えられるものである. ここには, 幾多郎自身が長年の禅体験を通じて得た思想が大いに貢献しているであろう.
 
 『
一般者の自覺的體系』以降, 彼の思想は更に深化を見せる. 我々は通常, 行為と直観とは全く独立した作用として見做す. しかし幾多郎は, これらは実は相補的であり同一的であると主張する. 即ち, 行為が直観を促し, 逆に直観が行為を促す. このような依存的関係にある行為と直観が互いに発展するのであり, ここにおいては主体的な自己を否定しつつ, 世界の内面に溶け込むが如き状態が齎されるというのである.
 
 このように, 自己否定を介して世界を内部から作用させるものとして「行爲的直觀」が考えられる.
世界は種々の環境を通じて自己を形成し, 自己に直観を与える. 直観を与えられた自己は, 行為することを通じて種々の環境を形成していく. 世界によって形成されたものは逆に世界を形成し, その相互的な循環の中に世界は発展を遂げていくのである.
 
 ここで「形成されたもの」と「形成するもの」との相即的な構造は, 矛盾対立するものが互いに自己を否定することよって相補的あるいは同一的な関係を呈するという「絕對矛盾的自己同一」に他ならない. これは, 矛盾対立するものが高次元において止揚されるという弁証法的構造を表しているわけではない. 現実の世界は, 矛盾対立するものは矛盾対立したままの状態で同一性を保持していると幾多郎は述べる. 彼は, 種々の例を挙げてこの概念を執拗に詳述するのである. これは
自己否定を介して他の存在を立てるという否定の論理を特徴とするものであり, ここには, 久松真一の言う「東洋的無」の論理が明確に息づいていると言えよう.
 
 実際, 幾多郎は,『
働くものから見るものへ』の序文において,「形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる發展には, 尚ぶべきもの, 學ぶべきものの許多なるは云ふまでもないが, 幾千年來我等の祖先を孚み來つた東洋文化の根底には, 形なきものの形を見, 聲なきものの聲を聞くと云つた樣なものが潜んで居るのではなからうか. 我々の心は此の如きものを求めて已まない, 私はかゝる要求に哲學的根據を與へて見たいと思ふのである.」と述べている.
 

 
 ここで, 幾多郎の論文の私自身の読み方について一言を付しておきたい. 私は, 幾多郎の論文を精読した経験は殆どない. 大方を通読または所々を拾い読みをしたといった程度に過ぎない. それゆえ, 幾多郎の思想の骨子を真に理解できているとは思われない. しかし, これは私に限ったことではないように思う.
 
 
幾多郎の思想に関する研究書や解説書は, 戦後から現在に至るまで毎年次々に刊行され続けている. しかし, それらの書籍の多くが, 幾多郎自身の難解な表現を他の箇所にある表現に置き換えて徒に捏ね繰り回すことに終始したトートロジーに過ぎず, 解説の体を成していない. 恐らく, 彼ら研究者自身も, 幾多郎の思想を理解できていないか, 幾多郎の思想を誤解しているとの批判を怖れているのであろう. 確かに, 引用を次々に繰り返すのみであれば,「誤り」を指摘されることはあるまい. しかし, そのような疑似研究書や似非解説書に何の価値もないこともまた明白である. 況してや, 彼ら著者自身の人生 (=考え方や行動様式) に直結した「活きた思想」として展開された書籍は皆無である.
 
 若い頃の幾多郎は, 鈴木大拙宛の書簡で,「
議論は精密であるが人心の深き soul-experience に着目する者一もあるなし パンや水の成分を分析し説明したるものあれどもパンや水の味をとく者なし」(『全集』第18巻 ) と嘆いている. その一方で, 後年の幾多郎が執筆した論文が難解である (主旨自体が難解なわけではない) ことも有名である. この点については, 後年の幾多郎も, 自らの思想の「味」を説こうとして「成分」を分析する仕儀に陥ったものと見える.
 
 西田哲学に造詣の深い上田閑照は, 長年にわたって「西田を読み続けてきた」が「理解が進んだようには思われない」と述べ,「何頁かにわたって何がどう言われているのか理解できない」が「そこには読ましめるものがあって迫ってくる」と述べている.「他の哲学者の思想や哲学思潮などを解説叙述する場合」や「
随想などの文章はまことに単純平明でしかも味わい深い」ことに鑑みると,「論文があのように難解になるには, 何か理由がある」という (『西田哲学への導き 経験と自覚』岩波書店 ).
 

上田閑照『西田哲学への導き 経験と自覚』岩波書店
 
 読者が幾多郎の論文を難解に感ずるのは, 独り幾多郎の責任ばかりではあるまい. 他者の哲学を学ぶことと各自で哲学を築くことには各段の差異がある. 論文の著者が幾多郎以外の者であったとしても, 読者がある程度まで自身の哲学を築くことによってその著者と同程度の水準まで思考を巡らせなければ, その著者の思想を理解することは不可能ではないか.
 
 幾多郎が (自身の思想を上手く表現できないことに) もどかしさを感じながら書き下した論文が, 結果として読者に難解な印象を与えるのはやむを得まい. しかし,
そこに展開された幾多郎の思想は, 彼自身の中では常に「活きた思想」であったろう. 私は, 最初に『善の硏究』を読んだ学生時代から, 私自身にとっての「活きた思想」にするべく, 幾多郎の思想を掴もうとしてきた. それを目的とするならば, 無理解や誤解の可能性を否めない他の研究者の解説書を読んだところで埒があかない. 研究者ではない私の如き者は,
無理をして論文を精読したり数多の解説書を渉猟するよりも,「単純平明で味わい深い」論文以外の著作を読む方が, 幾多郎の「活きた思想」を豊富に味わえるのである.
 
 私にとって必要なのは,「純粋經驗」や「
絕對矛盾的自己同一」などといった抽象的概念ではない. 私自身の考え方や行動様式 (=生きる姿勢) に今後生きる上で効果的な変革を齎すものを必要とする.「活きた思想」を欲する所以である. 私は, 学生時代以来, 西田幾多郎の著作をその観点で折に触れて繙いてきた. 随筆類は繰り返し熟読してきたが, 論文集は部分的に拾い読みをした程度であった. それでも私にとっては幾多郎の思想は充分に「活きた思想」として把捉できたように思う. 私のような読み方では, 専門家から見れば, 幾多郎の思想の骨子の理解には繋がらないかも知れない. しかし, 要は,「この私 (=坂田雅弘) 自身にとって」活きた思想となるかどうかであるから, そこは専門家といえども預かり知らぬ領域であろう.
 

 
 さて, 以上に述べた通り, 私が実践する幾多郎の論文の読み方は極めて粗雑であるが, その理由の一つとしては, 幾多郎の論文には重複した内容が多く, いずれの論文においても彼の思想の根底にある終始一貫した骨子が汲み取れるところにあると言えよう.
 
 例えば, 『哲學の根本問題』(『全集』第7巻 ) から各論文の冒頭付近の文章を幾つかを抜粋してみよう. これらの論文は幾多郎の根底思想を (自己自身の「活きた思想」として) 了解していれば, 極めて明解な内容を含むものとして読み進められる格好の例である.
これらの文章は, その後を読ませずにはいられない強力な牽引力をもって読者に(少なくとも私には)迫ってくるように思う (所々に, 文章は明瞭だが意味は不明という文言も含まれるのであるが, 専門家ではない私は, そこは飛ばして読むことにしている).
 
 「我々の自己に直接なる經驗内容, 卽ち廣義に於て内的知覺の對象となるものを實在と考へる. (中略) 眞の自己といふべきものは働く自己といふものであり, 眞の實在といふものは行動的自己の對象と考へねばならぬと思ふ.」(『行爲の世界』)
 「すべての物について, それが有るといふことを疑ふことができても, 私といふもののあることは疑ふことはできぬ. 私があるといふことを疑ふと云つても, 疑ふものが私でなければならない. (中略) 併しかういふ私とは如何なるものであるか.」(『私と世界』)
 「私には哲學は未だ嘗て一度も眞に行爲的自己の立場に立つて考へられたことがないのではないかと思はれる.
(中略) 行爲的自己と考へられるものはいつも祉會的でなければならない. 唯一人の自己といふものはない. 」(『總説』)
 「現實の世界とは單に我々に對して立つのみならず, 我々が之に於て生れ之に於て死にゆく世界でなければならない (中略) 我々が之に於て働く世界でなければならない, 行動の世界でなければならない. かかる世界の論理的構造は如何なるものであらうか.」(『現實の世界の論理的構造』)
 「個物は一般者の限定として考えられる. (中略) 個物は一般の限定として考へられると共に, 逆に個物は一般を限定すると考へられる. (『辯証法的一般者としての世界』)
 
 ここにみられる幾多郎の主張は簡潔で内容的に肯定せざるを得ないものである. ところで彼はそこからいかなる「活きた哲学」を導出しようとしているのであろうか.
 

 
 これに関して, 私は日頃より次のように考える者である.
 各個体に意識される「自分」なるものが, 個体ごとに種々の経験から次第に構築されてくるものであることは,『善の硏究』及び『自覺に於ける直觀と反省』において既に確認した. 各々の「自分」をもつ身体は, 全ての動植物を含め, 環境に変化を与え環境から変化を与えられつつ生きることも『
哲學の根本問題』等において確認した. それならば, この世界に生じる現象の全ては, 因果関係を基軸とする物理現象として把捉できると言わなければならない. 宇宙の膨張や自然災害などは勿論, 動植物における本能的作用のみならず人間や動物に見られる自覚的行為も (自覚的と感じさせてられているのみに過ぎず), 全て予めそのように思考・行為するように予定調和的に組み込まれているということになる.
 
 「風が吹けば桶屋が儲かる」の如き (原因と結果が短絡的に結び付くような) 現象は, 現実の世界においては極めて稀であろう. 多くの場合,
夥しい量の原因群が複合的に相補し合うことで予期せぬ結果を齎す事態が現実としての現象であり, それらもまた複合的に相補し合って新たな現象を引き起こすのである.「バタフライ効果」は「初期値鋭敏性」を標榜するが, その肝心な「初期値」を特定できないところに現象の予測困難性の本質があると言えよう.
 
 例えば, いま私が庭木の枝葉を眺めるとしよう. 風に吹かれて揺れる枝葉の揺れ方に規則性を見出すことは難しい. 風の向きや強さは刻々と変化する. 風が生ずる要因は, 地域ごとの気温の差異を主要因とする大気圧の変化や地球の自転によるコリオリの力や遠心力, ひいては人や車の動き, 異国のバタフライを含む種々の要因によるものである. 枝葉は, その枝が有する弾力性や水分含有率, 周囲の湿度, 一枚一枚の葉への風の当たり方 (葉の向きまたは風の向き), 各葉の質量や弾力性, 周囲の建造物による複雑な気流, 等々を要因とする個々の枝葉の動きが相互干渉することで, 不規則な揺れ方を演出する. その枝葉の揺れ具合が, 枝や幹の中に棲息する昆虫や菌類に何らかの影響を与え, それを捕食する鳥類や哺乳類の生態にも影響を及ぼすであろう. その光景は, それ眺めている私自身にも色々と感慨を起こさしめ, これも私に対する影響 (刺激ないし変化) の一つと言えよう.
 
 上の例を, 幾多郎が好んで用いる数学を持ち出して言い換えてみよう. 個々に独自の定義域を有する要因 \(x_{{}_{i}}\) を独立変数とする多変数函数 \(f_{s}\,(x_{{}_1}\!\:\!\:,\,x_{{}_2}\!\:\!\:,\cdots\,)\) の従属変数として或る領域内の環境 \(y_{j}\) が形成され, この \(y_{j}\) は同時に他の函数 \(f_{\!\:t}\,(y_{{}_1}\!\:,\,y_{{}_2}\!\:,\,\cdots\,)\) の独立変数の一つに組み込まれて新たな領域に於ける環境が形成される. このような多変数函数の可算無限集合 \(\{f_{\lambda}\}\,(\lambda\!\in\!\varLambda)\) により次々に数多の現象が同時的かつ連続的に引き起こされ, それらが相互に影響し合って連鎖していくのが現実の世界であると考えられる. それゆえ, 自らの思考や感情, それに附随する言動の原因である個々の \(x_{{}_i}\!\:\!\:,\,y_{{}_j}\) (実はこれらも他の函数達の従属変数として得られる) を, 我々自身が反省によって明確に突き止めることなど, もはや不可能である.
 
 従って,
我々が自身の行為を顧みて自覚的にとったものと判断したとしても, 実はその行為を生じさせた思考過程や意思は, 我々が周囲の環境から与えられた複合的な諸要素による因果関係から引き起こされたものに過ぎず, 環境から「我々はそのように意識させられ, 自覚的行為だと判断させられる」ように変化を与えられていたに過ぎない.「自分」なるものが経験により次第に構築されるものであるならば, そこから発出される「意思」なるものも経験から構築されることになる. 即ち,「自分」の「意志」を介入させて変化させた環境により「自分」が変化させられるという構図において,「自分」や「意思」は主体的には (函数における独立変数としては) 何ら係わっていないということである.
 
 しかしその一方で, 我々は日常において自らの「自由意志」を実感して生きていることも事実であろう. そうであるからこそ, 社会においては自己の言動に責任を附随させられるのである. また, 周囲の人々や環境に対して, 喜怒哀楽を含めた種々の感情を常に抱くことも日常茶飯事である. これら全てが, 永遠の過去から宇宙において継続する物理現象の一環と言えるのであろうか. 私はここに矛盾を感ずるのであるが,
各個体に意識される「自分」なるものが謂わば我々の幻想に過ぎぬものである以上,「自由意志」なるものも我々の幻想であると見做す他はないであろう.
 

 
 『哲學論文集 第六』(『全集』第11巻 ) において, 幾多郎は次のように述べる.
 「
何處までも因果關係の全軆の中にありて働き働かれると共に, 之を越えて全軆を表現し, 全軆を自己表現となすものが作るものであるのである. 多と一との矛盾的自己同一として, 全軆が自己の中に自己を表現する. (中略) 絕對矛盾的自己同一の世界は, その根底に於て, 無限なる唯一的事の世界として, 創造的世界, 卽ち生滅の世界でなければならない. (中略) 主軆が環境を, 環境が主軆を限定し, 主軆と環境との卽ち全軆的一と個物的多との矛盾的自己同一として, 世界が自己自身を限定する所に, 我々の生命と云ふものがあるのである. (中略) 我々の自己と云ふのは, 右の如き意味に於ての矛盾的自己同一的世界の自己限定の極限として現れて來るのである. (中略) 我々の自己は作り作られたものとして自覺する (中略) 世界は對の否定卽肯定として, 自己表現的に, 自覺的に, 自己自身を維持するのである.」(『物理の世界』)
 
 ここに見られる幾多郎の思想と先に述べた私の考えるところとは本質的には異なるであろう. 幾多郎は, 私が先述したような現実世界を「
矛盾的自己同一」と解し, そこから新たに我々が自発的主体的に働く可能性を見出している. 以下の論文は, 私が真に (理屈として) 納得できるものではないが, 幾多郎が主張しようとしたことは感覚的には理解できる.
 
 「
世界は我々の自覺に於て自己自身を表現し, 我々の行爲を通して自己自身を形成し行くのである. 此に知識があり, 道德がある. 故に我々の行爲は一々が絕對現在の自己限定として歴史的形成的である (中略) 自覺的に働くのである. (中略) 我々の自己は世界を映すことによつて働くものとして, 創造的であり, 神の映像である. (中略) 豫定調和とは世界の無限なる自己形成の形, 我々の自己の行動の形である. (中略) 我々は身體的に行爲的直觀するのである. 腦が行爲的直觀するのではない. 腦は行爲的直觀の手段となるのである.」(同書)
 
 「
ライプニッツに於ては, 個多が何處までも實在的である. 個物は不生不滅である, 唯神によつて造られ滅せられるのみである. そこで個物の相互関係の根源は, 神に求めるの外ない. 豫定調和と云ふ如き考の出て來る所以である. 絕對現在の世界に於ては, 一々の事が過去未來を否定し, 唯一の事として自己自身を限定すると共に, それは永遠に消え去る事であるのである. 創造の世界であると共に生滅の世界である. 豫定調和とは, ライプニッツのそれの如く假定ではなくして, 歴史的世界構成の論理的原理でなければならない. (中略) 神は絕對の無である. 形あるものは形なきものの影であると云ふことができる. 神は永遠の鏡である.」(『豫定調和を手引として宗敎哲學へ』)
 
 「(キリスト教の如き)
完全無缺なる神の創造としては, 世界は最善の世界と考へざるを得ない. 併しかゝる神は絕對の神ではない. それは不完全に對する完全, 惡に對する善として, 何處までも相對的神たるを免れない. (中略) かゝる立場から眞の自由意志は出て來ない. (中略) 絕對現在自己限定の世界は, 之に反し絕對の否定を含む世界でなければならない, 極惡を含む世界でなければならない. 絕對現在の世界は (中略) いつも現在の自己限定である.」(同書)
 
 私は, 現時点では幾多郎の論文を精密には読んではいないため, 彼の思想を真に理解できてはいない. 今後, 私自身が抱える問題提起に沿って, その都度, 折に触れて読み進めていくことになるであろう.
 
 ところで, 幾多郎は, 独自の哲学を構築するに当たって, 深い理解を有する共同研究者というものをもたなかった. 彼の思想を理解, 示唆し得るような同僚乃至研究者をもたない彼は, 彼自身の思想を自己内対話を通して深めていく他はなかったのである. 無論, 考えるのみでは思想は発展しない. モノローグ的になることをもやむを得ずとしつつ,
考えては書き, 書いては考えるという研究姿勢を貫く他はなかった. 彼自身が, 独自の哲学の境地へと足を踏み込んでいったのであり, 言葉を探しつつ, 一歩一歩着実に歩みを進めていく他はなかったわけである. 彼の論文が難解であると言われるのも, そのような事情があったからこそであろう. 只管一人で考え, 書く他はなかった幾多郎が, 自己の思想と格闘したその軌跡とも言うべきものが, あの難解な論文として遺されているのである.
 

 
 では, それほどまでに幾多郎を哲学に駆り立てたものは何であろうか. 幾多郎は, 近現代の多くの哲学者達が「認識論」や「存在論」など各論に傾倒していくのみで深く顧みることが等閑にされていた「我々人間は何を爲すべきか, (中略) 人間の行動は何處に歸着すべきか」の問題を,『善の硏究』以来, 一貫して追窮してきたと言ってよい. ここでは,『無の自覺的限定』から幾つか抜粋してみよう (『全集』第6巻 ). 幾多郎は, 我々の置かれた実情を見詰め, 我々は本来どうあるべきかを順に解いていく.
 
 「
我々は通常自己自身を愛するといふことは自己の欲求を滿足させることと考へて居る. (中略) 肉軆的欲求と考へられるものが最も强い我々の欲求といふことができるであらう.」(『自愛と他愛及び瓣證法』)
 「
人格とは主として理性的に行爲するものとして考へられるが, 獨立なるものと獨立なるものとの直接の結合は愛といふものでなければならない (中略) 永遠の今の自己限定として, 永遠なるものに觸れる所に, 良心的直覺があり, 對的愛の内容があるのである.」(『永遠の今の自己限定』)
 「
我々が各自の底に絕對の他を認め互に各自の内から他に移り行くといふことが, 眞に自覺的なる人格的行爲と考へられるものであり, かゝる行爲に於て私と汝とが相觸れるのである」(『私と汝』)
 「
働くといふことは, 自己自身を否定して他に移り行くこと (中略) 唯一なる人格として歴史的使命を果すことでなければならない(『自由意志』)
 「絕對愛によつて裏附けられた無の自覺的限定として社會的限定が, 一面に何處までも否定の意義を有するものとするならば, 之に於てあるものとして自己自身を表現するものは, その根底に於て自己自身を否定することによつて生きるといふ辧證法的限定の意義を有つたものでなければならない.」(『時間的なるもの及び非時間的なるもの』)
 
 この問題を追窮すると同時に, その動機について幾多郎は次のように記している.
 「
人生問題といふものなくして何處に哲學といふべきものがあるであらう.」(『生の哲學について』)
 「哲學は (中略) 眞の人間學の意味を有つて居ると云つてよい
(中略) 哲學は我々の自己の自己矛盾の事實より始まるのである. 哲學の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない.」(『場所の自己限定としての意識作用』)
 「哲學は單なる理論的要求から起るのではなく, 行爲的自己が自己自身を見る所から始まるのである (中略) かかる意味に於て私は人生問題といふものが哲學の問題の一つではなく, 寧ろ哲學そのものの問題であるとすら思ふのである. 行爲的自己の惱, そこに哲學の真の動機があるのである.」(『私の絶對無の自覺的限定といふもの』)
 
 「哲學の動機は「驚き」ではなくして」なる文言は, アリストテレスの「驚異することによって人間は (中略)〔哲学〕し始めた」(出隆訳『形而上学』岩波文庫) を意識して書かれた文言であろうが, 肝要点はそこではなく,「
深い人生の悲哀でなければならない」の方である. これは幾多郎自身が生涯に渡って経験し続けた, 妻や子供達など親しい身内の死という, 心身を抉られるような耐え難い悲しみの数々から体得された幾多郎自身の「活きた哲学」に他ならない. 親しい者の死に触れた経験を幾多郎は度々書き残しているのである.
 

 
 彼の随筆からもいくつか抜粋してみよう.
 「
余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪へなかつた, 特に此悲が年と共に消えゆくかと思へば, いかにもあさましく, せめて後の思出にもと, 死にし子の面影を書き殘した
 「
親の愛は實に純粹である, (中略) 亡兒の俤を思ひ出づるにつれて, 無限に懐かしく, 可愛さうで, どうにかして生きて居てくれゝばよかつたと思ふのみである.
 「
時は凡ての傷を癒やすといふのは自然の惠であつて, 一方より見れば大切なことかも知らぬが, 一方より見れば人間の不人情である. 何とかして忘れたくない, 何か記念を殘してやりたい, せめて我一生だけは思ひ出してやりたいといふのが親の誠である.
 「
人間の仕事は人情といふことを離れて外に目的があるのではない, 學問も事業も究竟の目的は人情の爲にするのである.」(「國文學史講話」の序』(『全集』第1巻))
 
 日露戦争において戦死した友人や弟に関する記述もある.
 「
君の生涯を考へて見れば, 君は一人子として兩親に愛せられ何の不自由もなく生長し二十歳頃までは人世の悲哀を味はぬ太陽の子であつた. が二十歳頃慈母の死は麗なる君が心の空に忽ち一陣の風雨を起して君が生來始めて悲哀なる人生を嘗め死の神の鎌の鋭利を味つたのである. (中略) 最も悲しむべきは君が出征以前に妻君を失はれたことである. 自分が生還を期せざる戰場に臨むの前後事を託すべき妻が反つて幼兒を遺して逝くとは, いかに快濶なる君も痛く人生の悲哀の無常を感じたに相違ない. 而して數月を出でざる中に死の神は君自身を襲ふたのである.」(『向少佐を憶ふ』(『全集』第13巻 ))
 
 「
友を亡し弟を失ふは軍國の常事, 徒らに私情を述べ己が弟の事のみあぐるは忠實なる他の戰死者及び私情を忍んで默し玉へる他の奥床しき人々に對して耻しき心地すれど, 余が骨肉の情已まんと欲して已む能はざる者ありて擧げていふべき程の事もなき弟の一生なれども拙き筆に記して淚ある同胞が一片の同情を乞はんとするのである.
 「
生者は死すといふ程明なる事實はないが, 又此程吾人が忘却し居る事柄もない. 死といふ事は日々之を聞くのであるが, 死は他人の事であつて自分は何時までも生きながらう者の如く日々仇なる妄想に耽り居るのが吾人の常である. 偶自己が最愛の骨肉を失ふ如き時に及んで今更の如くに個體的生命のつまらないといふことを深く悟り轉た人生の眞摯ならざるべからざる所以を感ずるのである.(『余の弟西田憑次郎を憶ふ』(『全集』第13巻 ))
 
 後年の幾多郎は, 猫の死を巡って詩的な冒頭部をもつ随筆を記している.
 「
今は冬の眞中だ. 世は皆灰色だ. 唯煖爐の火のみが赤く燃えてゐる.
 「猫も死んでしまつた. (中略) 昨年の大掃除の日, 何處からとなく一匹の猫がはひつて來た. (中略) いつでも猫の一擧一動が話題の中心となり, 時ならぬ笑の波がそれから起つて來る. (中略) 猫は两三日前まで相變らず元氣で, 縁側を我もの顔に日向ぼつこをしてゐたが, 何處かで毒を食つたと見えて急に病氣になつた. 今朝はもう縁の下で死んでゐた. たかが猫一疋の死, それは何でもないことだ. 併し淋しい今の私の家では, 自ら「猫も死んでしまつた」といふ聲が出たくなる. (中略) あの猫も何處から何處へ消え失せたのであらう. これも夢のやうだ.(
煖爐の側から』(『全集』第12巻 ))
 
 一方, 若い頃の幾多郎は, 人生の無常に悲哀を感じて次のような随筆を記した.
 「
我等は此の美しき天地に棲息して外には親しき友達の會合もあり内には家族團欒の樂もある. 毎日定りたる業務を繰返して起きる働く食ふ寐る, かくの如く六十七十の星霜を消し盡して齒落ち眼かすみ遂に荼毘一片の煙と化し去るのである. 我等の祖先もかくの如くであつた. 我等の子孫もかくの如くであらう.
 「
生は何處より來り死は何處へ去るのであるか, 人は何の爲に生き何の爲に死するのであるか, これが最大最深なる人心の疑惑である.
 「
世の中には終日衣食の爲に奔走し, 單に物質的存在の爲に汲々として一生を沒し去る者が幾億萬人あるかも知れぬ. 此等の哀なる人々は如何に生くべきかと考ふる餘裕もなくて一生唯生くる爲に生きたのである. 此の如き世の中で人生の價値を論ずるなどは甚だ贅澤なる者であるかも知れぬが, この物質的生命といふものが左程に大切なる者であらうか. 心を苦しめ身を役して五十年の飲食をつづけ, 其結果は燒いて棄つべき臭肉を何十年か維持しまた子孫を遺したまでであつて, 而して其子孫が亦同じ無意義の生活を繰り返すものとすれば, 何んと之より馬鹿らしき事はあらうか.(人心の疑惑』(『全集』第13巻 ))
 
 晩年の幾多郎は, 第三者として客観視した観念としての死ではなく, 自ら何度も繰り返し体験し, 常に苦しめられ悩ませ続けられた身近な死を, 自身の「活きた哲学」にするべく論文に書き綴っている.
哲学論文において著者自身の体験や研究動機を語る例は, 極めて珍しいことであろう. 幾多郎はその意味においても他に類を見ない稀有独特な哲学者であった. 彼の論文が宗教に依拠していくのも理由のないことではなかったのである. 『哲學論文集 第七』における最晩年の論文『場所的論理と宗教的世界観』(『全集』第11巻 ) には,「幾多郎自身が「於てある場所」としての「宗教」」の総括ともいうべきものが彼独特の筆致で展開されている. 私は彼の言う「宗教」を真に理解し得る者ではないのであるが, 幾多郎がこの論文で主張しようとしたことは心情的にはよく理解できるのである.
 
 幾多郎自身は, 自己の哲学を体系化することなく世を去った.
生涯を通して, 未踏の領域を模索し続けた彼は, 彼自身が目指す到達点に至ることが叶わず, 自らの哲学を顧みてそれらを総括する時間をもてなかったのである. 彼は『高山岩男「西田哲學」序』において次のように述べている.「私は自分の書いたものが他に理解せられなかつたり誤解せられたりすることに就いて, 豪も抗議しようといふ考を有たない. それは深く私の考の未熟なると論述の不完全なるとを知るが故である. 唯 (中略) 先づ私の立場と意圖とについて理解を有たれたい (中略) 哲學は軆系の構成を目的とせなければならないことは云ふまでもない. 私もそれを目的とせないのではない, 唯力及ばざるのである. 私はいつまでも一介の坑夫である. 礦石を精錬する暇すらもない.」(『全集』第13巻 )
 彼の哲学を体系化し, より洗練された形に纏める作業は, 後世の者達の重要な仕事となるであろう.
 

 
§6.その人間的魅力
 三木清は『読書と人生』において, 哲学者としての幾多郎を断片的に綴っている. それによれば, 幾多郎の特殊講義は土曜日の午後に行われ, 他科の学生や卒業生等も聴講しに来る京大の名物講義であったという. その講義は, 歩き回りつつ呟くように話し, あるときは黙り込んで考え, あるときは咳き込んで話すといったものであったらしい. それは「何か極ったものをひとに説明してきかせるというようなものではなく, ひとを一緒に哲学的探求に連れてゆく」ようなものであったという. 三木は更に, 幾多郎の書物の難解性に言及して「その強靭な論理を示す文章の間に, 突然魂の底から迸り出たかのような啓示的な句が現われて, 全体の文章に光を投げる. (中略) 先生の講義もやはり同じようであった.」と書いている.
 
 哲学者として優れた業績を挙げつつ, その一方で, 人格者としての幾多郎はいかなる逸話を残したのであろうか. こちらの方面に関しては, 流石に多くの者を感化した幾多郎だけあって, 興味深い逸話には枚挙に暇がない. 無論, 全てを挙げるわけにはいかないので, 本稿では断片的にいくつか紹介し, 西田幾多郎における教師像を汲み取ってみようと思う.
 
 幾多郎は, 人物や書物に対する慧眼をもっていたらしい. 多くの弟子達の伝えるところによれば, 諸外国の著名哲学者やその著書に対して的確にその研究価値を見極めたという. 彼の書物への接し方は,
一冊一冊丹念に精読するというような読書法ではなく, 直観的にその著書の本質的な部分のみを抽出し把捉するというようなものであったようである.
 
 高山岩男は「本物の哲学者には必ず独自な考え方がある. 書物を読むというのは, その骨をつかむことだ. (中略) その骨がわかってしまえば, 何も最後のページまで読む必要はない」という幾多郎の談を書き記している. また, 良書に巡り合う方法については「良い学者の引用する書物は大抵良書だが, 下らぬ奴ほど下らぬ本をあげるものだ. 自分は昔はこの標準で新しいものを読んだ」とある. (高山岩男『西田哲学とは何か』燈影舎)
 
 素人が真似をするには非常に粗雑かつ危険な方法であろう. その標準が実際に骨を掴んでいるか否かを自己判定することは困難である上, 全く方向違いの思想を追い駆ける可能性も否定できないからである. しかし, 彼の場合は, その
鋭い直観によって的確に必要な良書を見極め, 自己の思索を鍛錬していったのであった.
 

高山岩男『西田哲学とは何か』燈影舎
 
 幾多郎の読書法について, 彼自身の随筆『読書』(『全集』第12巻 ) からいくつかを抜粋してみよう. 「書物を讀むと云ふことは, 自分の思想がそこまで行かねばならない. (中略) 偉大な思想家の書を讀むには, その人の骨といふ樣なものを掴まねばならない. そして多少とも自分がそれを使用し得る樣にならなければならない. 偉大な思想家には必ず骨といふ樣なものがある.
 
 このように述べる幾多郎は, 自らこれを実践し, 弟子達にも勧めていたようである. 偉大なる思想家を見出し, その骨を掴むことに長けていた幾多郎は, いかに偉大であろうとも, 一人の思想家の著作全集を所蔵する必要を感じなかったらしい.
 
 また, 彼は「
一時代を劃した樣な偉大な思想家, 大きな思想の流の淵源となつた樣な人の書いたものを讀むべきだと思ふ. (中略) 唯むつかしいのみで, 無内容なものならば, 讀む必要もないが, 自分の思想が及ばないのでむつかしいのなら, 何處までもぶつかつて行くべきではないか.」とも述べている. 幾多郎の読書法は, そのままの形で我々が模倣することはできないにしても, 一つの優れた参考になし得る方法であると思う.
 
 また, この読書論とは別に, 幾多郎が中学生向けに著した『
読書』(『全集』第13巻 ) という文章がある. ここには,「精神の發達には精神の食物ともいふべき讀書を廢してはならぬ. (中略) 一日も精神の向上的發展を忘れてはならぬ. 眞摯なる讀書は, 讀書其事が意思を鍛鍊し, 人物を作るに益があると思ふ. (中略) 眞に强固なる意思は奮つて難解の書を讀み, 進んで難問題を考へ, 何處までも徹底的に解決せざれば已まざる氣力によつて養成し得ると思ふ. (中略) 書を讀むには、自分に少し難解の書を讀む方がよい. (中略) 自分が獨で能く考へて分り得る位の程度に於て、難解の書をよまねばならぬ. (中略) 最も良い書を精讀せねばならぬ, 幾度も繰返して精しく考へて讀まねばならぬ (中略) 精讀といふのは疑ふことである.」というように, 中学生ならずとも興味深い読書訓が記されている.
 
 人物に対しても幾多郎の眼は優れていたという. これに関しても三木は『読書と人生』において「有名な哲学者の名を挙げて, どうかと伺うと, いきなり「あれは駄目だ」という風に, ずばりと云い切られる. その簡単な批評がまたよく肯綮に当っていた. 私は先生の直観の鋭さに敬服すると共に, 先生のもの怯じしない不敵な魂を感じた.」と記している.
 

 
 西田幾多郎におけるこのような人物評, 書物評の確かさとして私が感心するところは, 哲学における所謂京都学派を築いた有為な人材が, 幾多郎を介して京都に招聘されたという事実である. 三木清が「壮観」と形容した教授陣のうち, 波多野精一, 田邊元, 和辻哲郎, 九鬼周造などは, 幾多郎が招聘した人物に他ならない. ここには, たとえ自分の研究と方向性を異にする者であっても優れた研究者ならば同僚として迎え入れるという, 幾多郎の懐の深さ, 幾多郎の人間的包容力の大きさが如実に示されている.
 
 後年, 幾多郎と田邊が熱烈な議論をした逸話を高山岩男が書き残している.「二言三言喋ればお互いに切返す猛烈な議論がしばらく続いた後, (中略) 田辺先生が「だから先生は弁証法がわからないんです」と言った. (中略) 西田先生の顔を盗み見していると, さすがにムッとしたらしく, ちょっと無言であったが, 椅子と共に前にのめり出られて,「君からそう言われるのは心外だ」と言われたのを覚えている. しかし怒られるというわけでもなく, またまた猛烈な議論を続けられた.」(前掲書『西田哲学とは何か』)
 
 思想上では幾多郎と種々の論戦を展開した田邊であるが, 若い頃の田邊を京大に招いたのは幾多郎であった. 幾多郎は, 田邊元を東北大から京大に招聘する際, 他の大学に田邊を採用する予定がないかどうか, 京大に呼んでも差し支えがないかどうか, 何よりも本人が京都へ来る意志があるかどうかを逐一打診している. 人づき合いが悪く, 研究以外の事柄に関しては興味がなく世俗にも疎いと考えられがちな幾多郎であるが, このような
採用人事に関しては, 他に礼節を欠かぬよう, 自ら懇切丁寧な対応を図っていることに驚かされるのである.
 
 これに関する幾多郎から田邊への打診は次の書簡から始まる.
 「
これは全く小生の頭だけにある事にて成否は勿論分り申さず候へども小生は機を見て貴兄を京都の文科の助敎授位に推薦して見ようと存じ居り候が御考いかがに候か 併し貴兄のことは東京にても他日採用する考があるらしくそれよりも早く東北の文科 (これはできるらしく候) の方にて貴兄を要するならんと存じ候 (中略) 東北文科ができるとすれば貴兄は多分直に重要の地位に就くを得べく京都では助敎授の外致方無之と存じ候 東京でも助敎授の外なかるべく候が東京の方はどうしても京都よりも重きをなすならんと存じ候 右の如く考へ候故 小生は決して貴兄に御勸め申さず候 (中略) 先づ貴兄の御遠慮なき御考を承り置き度と存じ候」(『全集』第19巻 )
 
 当時, 田邊は東大の出身でありながら東北大の講師に甘んじており, その待遇に不満を感じていた. そのような不遇にありながらも優れた論文を発表する田邊の才能に, 幾多郎は目を付けたのであった. 京大では当面は助教授の地位しか用意できないが, 可能であれば是非京大へ来任頂きたい, と幾多郎は田邊の意向を問うたのである. その後, 京大の動きを知った東大や東北大も田邉を自大学へ取り込もうと画策し始めた. 幾多郎は, それを考慮して, 京大への来任を「 (強くは) 御勸め申さず」と書いたのである. しかし, 東大や東北大は, 田邊を採用する姿勢を明確に示さなかった. そこで田邊は京大へ助教授として移ることを内諾したのであった.
 
 その後, 東大の桑木厳翼は, 田邊の採用をたびたび仄めかしながらも終には「採らぬことに決めた」と言ってきた. ところが, 田邉の京大転任がほぼ決定する頃, 彼の現任校である東北大が, 田邊を「教授」として採用する旨を彼に伝えてきたのである. 田邊は迷い始め, 先輩や知人に相談するようになる. そのような田邊を先輩として懇切丁寧に諫めたのが波多野精一であった. 波多野は, 田邉を京大に招聘するために幾多郎がいかに苦心して準備を進めているか, しかし一方で, 田邉自身の意向を無視して強制することにならないよう幾多郎がいかに方々に気を配っているかなど, その詳細を幾度も田邉に報じ, 心を惑わす田邉を窘め, 迷い悩む田邊を勇気付ける内容の書簡を度々送っているのである.
 
 ここに見られる
田邊宛の波多野の書簡は, 幾多郎に対する敬愛と田邊に対する慈愛に富んだものであって, 読む者に深い感銘を与えずにはおかないであろう. 波多野の優れた人格と幾多郎の深い人間性が如実に伺える内容であり, 私は, 一つの優れた芸術作品を見る思いでこれを幾度も熟読したものである. 紙数の関係で全文を引用できないのが誠に残念であるが, 最後の部分だけ抜粋しておく.
 
 「……桑木君より東京にては取り度いが取らぬ事に定めたとの答を得て西田君は最後の一歩に向はれしにて候 (中略) 貴兄招聘の話が西田君と小生との間に持上つてよりもはや殆んど一ヶ年半を經過致候 西田君が如何に貴兄に對して念には念を入れられしか丈にても思ひ見られよ. これを桑木君などの態度と比較して見られよ. (中略) 小生はこの西田君の思ひやりあり遠慮深き, 用意周到なる, しかも公の爲めに一點の私心を挾まざる, 一旦心を定めたる以上は飽くまでも眞直に進む, この熱心とこの純なる心事とを思ふ時は感激せざるを得ざるを感じ候 仙臺大學が, 申出でむ機會はいくらもありながら, やつと今になつて引留を計らむとする如きとは, 其情味に於て果して同日に論じ得べく候や」(『波多野精一全集』岩波書店, 第6巻 )
 

『波多野精一全集』岩波書店 (1989刊)
 
 波多野の田邊宛の書簡には, この前後の何通かに渡って幾多郎の田邊に対する人間味溢れる言動が切々と綴られているのである.
 

波多野精一 (1877-1950)
 
 そのような波多野を京大に招いたのもやはり幾多郎であった. 波多野は当時, 早大にて哲学史を講じていた. そこへ幾多郎から声が掛かったのであるが, 京大では宗教学を講じて欲しいとのことであった. 同じ哲学史を講ずるのならばともかく, 宗教学を講ずるとなると, 今まで世話になった早稲田への恩義に背くことになる (波多野は留学から帰朝した直後でもあった) ことを配慮したためか, 波多野は京都行きを一旦は断った. 波多野が明確にそれを主張した形跡はないのであるが, 宗教学担当では京都に来辛いであろうと考え, 波多野に哲学史を担当させるために自分は哲学史の講座を下りて他校へ転じようとしたのが (幾多郎の同僚であった) 朝永三十郎であった.
 
 この様な朝永の考えを知った幾多郎は,「
……貴兄がこゝに居らるゝ事が有害といふことなら致し方ないが 私は何人もさうは思ふまいと思ふ 私は貴兄を überschätzen もないが (中略) unterschätzen もない 前の手紙に申上候如く貴兄を Kolleg より失ふといふことはどうしても損失と考へる (中略) 相談相手といふものは考へ樣によつていくらもできるかも知らぬ 併し人情は左程單純なものとは思はれない 余の妻よりよき妻は多かるべく 余の友よりよき友は多かるべし 併し余の妻は余の妻にして余の友は余の友なり」という書簡を書き送っている (『全集』第18巻 ).
 
 ここには, 現代においては
極めて稀有かつ貴重な三者各々の高邁な人格が見られるであろう. 世話になった早大に恩義を感じて京大への招聘を一度は断り, 京大では幾多郎への感謝と敬意をもって田邊を説得した波多野, その波多野を京都へ招くために自己の学者としての地位を犠牲にせんとした朝永三十郎, 同僚かつ友人たる朝永に対して純真に切々と遺留を説得する幾多郎, ……我々はこのようなところに己が人格を磨くための材料を求めなければならないであろう.
 
 ところで, その後, 早大では大隈重信銅像建設問題を発端とする学内紛争が勃発した. 暫く沈黙を守っていた波多野は「純粹に學者としての矜持を傷つけられまいとする自由の意思を以て」早大を辞任する決意をし, 再び幾多郎に声を掛けてもらったのを機に, 宗教学担当として京大へ移ることになったのであった. この辺りの事情は, 石原謙の「序説 生涯と學業」(『宗敎と哲學の根本にあるもの』岩波書店 ) に詳しい.
 

石原謙 / 他『宗敎と哲學の根本にあるもの』岩波書店
 

 
 私は, 実際に幾多郎の謦咳に接し得た多くの人物たちの境遇に並々ならぬ羨望の念を禁じ得ない. これほどまでに多くの者を感化する人格者に接し得ることは極めて稀であり, 実際, 私はこのような幸甚に預かった経験をもたずに学生時代を過ごしてきた. とは言え, たとえ間接的にであったとしても, 幾多郎の人物像に僅かながらも接し得たことを甚だ幸福であったと感じている.
 
 稿を終えるに際し, 直接的に幾多郎に教えを乞うた弟子達による逸話を紹介して, 彼における教師像を総括することにしたい. 弟子達が同様に書き残している
幾多郎の教師像として, まず, その厳格性が挙げられよう.
 
 高山岩男は次のように記している.「先生は決して温順の人ではなかった. (中略) 学生時代の私は何となく接し難い, 恐い感じを受けた. (中略) 然るに大学を退かれて後の先生は全く一変して, (中略) 極く穏かな, 温味のある人になられたと思う. (中略) 先生は教師としては決して親切な人ではなかった. 懇切丁寧に説明してくれる様な先生ではなかった. 「まあ, そんなものだろう」とか「そうでもあるまい」とかいう簡単な答で, 後は自分で考えろという様に黙っていられることが多かった. (中略) 先生は即ち説明型の教師でなく, 学生自身をして考えさせる示唆型の教師であったと言えよう. 」(前掲書『西田哲学とは何か』)
 
 学生自身による内側からの学的発達を待てずに次々と説明し指示する教師は教師として二流であろう. 幾多郎は,
自ら誰にも師事せず只管に独力で道を切り開いた者として, 弟子達に対しても同様の方法を自ら勧めていたと思われる.
 
 また, 次のようにも書いている.「先生は常々私達に語って, 君等は決して自分の哲学に追随してはいけない. 自分の考えをそのまま受け取る必要は毫もない. 君等が考える上に何か役立つなら, それで結構なのだ, ということを言われていた. (中略) 先生位, 門弟の個性を自由に伸ばされた人も少ないと思う. (中略) 先生は弟子達のことには随分配慮せられたのであるが, このことは当人には一言も洩らされることがなかった. (中略) 先生を中心にした交わりは全て人格的な信頼を基礎とした交わりであった. ただ先生は人間の道徳的な品性には非情に峻厳であった. 先生の人物評は実に簡単で, しかも寸鉄人を殺す底のものがあった. 」(同書)
 
 無論, 幾多郎のような教師に就いた弟子が全て高山のようにその恩恵を充分に感じ取ったわけでもあるまいと思う. 四高の教師時代, ドイツ語の時間に幾多郎の訳に少し疑問が残った学生が,「辞典にはこういう訳が出ている」と言って幾多郎の訳読に抗議を申し立てたところ, 幾多郎は怒って「そんな辞典は破って捨ててしまえ」と怒鳴ったことがあったという.
 
 このような幾多郎に対して反感をもった学生もあったに違いない. 一方で, そのような幾多郎の人物の中に, 一層の偉大性を認めて更なる勉学に励んだ学生もまた多かったに違いないのである. 師の偉大性を認識できる者は, やはり自ずからその内部にその偉大性を秘めていることが多い. 即ち,
人一倍勉学に励み, 師の学及び人物を吸収, 咀嚼せんと日々研鑚を積む者のみが幾多郎の偉大性を認識し得るのであり, その意味において, 多くの優れた弟子達を有した幾多郎は極めて幸福であったと言えよう.
 
 高山は「先生の哲学は中々難解で容易に了解できるものではないが, しかし誰が読んでもその人なりに何かを掴むことが出来る. その理解は主観的であるかも知れないが, 主観的でもとにかく何か求めているものに触れる所がある. 」と述べているのであるが, このような事情は, 著作に限らず, 一般的に言えることであろう.
 
 幾多郎の言動において, ある者達から見れば理不尽であると感ずるような場合も, 別のある者達から見れば主観的にではあっても多くの感化を得るわけである. これは「私は先生を訪れる度毎に, 何かしら刺戟され教わるものがあった. (中略) 仮令先生が老いて思索の鈍る様な時が来たと仮定しても, 先生はただ生きて存在しているだけで, 何かしら我々を刺戟し鼓舞され, そして我々の問題に解決の光明を与えてくれる人である」と述べた高山において特に当て嵌まることであろう.
 

 
 幾多郎は, 頻繁に大学や自宅の周辺を散歩したらしい. 散歩とは言え, 幾多郎の歩き方は小急ぎであって, 時折立ち止まって思索に耽るとまた歩き出すといったようなものであったという. 三木清は幾多郎の歩き方を, 何かに憑かれたようであったと形容している. 務台理作は「先生の散歩はゆっくりブラブラと歩くのではなく, 何かこう眼を据えてせかせかと忙しそうに歩く散歩であった. 」と書いている. また,「大学へ往復するたびに田中村の先生のお宅の前を小川と畑を距てて通る. 時々二階の狭そうな廊下を行き来している白老姿の先生を見ることがある. 」とも書いているのであるが, これは「二階の南側の廊下を往ったり来たりしている先生の姿を見掛けることもあった. (中略) 廊下を往復する先生の姿には何か凄愴といったようなものがあり, 私は檻の中を歩くライオンを連想したりした. 」という三宅剛一の記述とも合致するものである.
 

京都時代の幾多郎宅 (京都市左京区田中上柳町)
 

「二階の南側の廊下」部分
 
 現在,「哲学の道」という名称で知られている銀閣寺付近の小道をよく歩いていたようであるが, この名称はハイデルベルクの「哲学者の道」に由来するものらしい. 私自身も実際に幾度かこの道を歩いてみたことがあるが, 小川に沿って1km以上続くこの小道は, 確かに思索に相応しいように感ぜられた.
 

南禅寺と銀閣寺を繋ぐ「哲学の道」
 
 また, 戦時中の話であるが, 思索に夢中になって散歩している幾多郎は挙動不審の廉で警察に捕まったこともあったようである. 日記にも「午前間違にて警察に呼び出される」という記述が見られる (『全集』第17巻 ). 幾多郎は, 思索に没頭するあまりか, 通常の人間には見られぬような奇抜な言動も少なくなかった.
 
 幾多郎の随筆『
アブセンス・オブ・マインド』(『全集』第12巻 ) では, ある外国人教師の晩餐に招かれた幾多郎がその家を訪問したにも拘らず家の主人がなかなか姿を現さないのを不思議に思っていたところ, 実は幾多郎は訪問すべき家を間違えて別の家に上がり込んでいたことが分かった, といった内容の失敗談が披露されている. 幾多郎は, 晩餐に招待されている間にも格闘中の思索に没頭していたのであろうか.
 
 また, 和辻哲郎の家を訪問した際には, 玄関に妙な人が来ている旨を女中が伝えるので和辻夫人が玄関に出てみると, 巻き付けた兵児帯が解けて和辻邸の坂の方まで長く引き摺っている幾多郎の姿があったという. それより以前, 和辻夫人が子供を連れて西田家を初めて訪問した際には, 夫人が幾多郎の娘たちと玄関先で話をしていると幾多郎が突如として現れて「やあ」と挨拶したきり黙り込んでしまい, そのまま数分が経つと「じゃあ」と言って奥に引っ込んでしまった, ということもあったようである.
 
 講演会では, マイクの前で話すように事前に注意されていたにも拘らず, 演台上を前後左右に歩き回って主催者を困惑させたという話もある. また, 進講においては, 天皇の前では自分を「西田」と称するように注意されていたにも拘らず, 講義に夢中になるうちに「西田」が「私」となり, 最後には「わし」になって冷汗ものだったと, 西田自身が後に語っている. このようなところに幾多郎の極めて温か味のある人間性が伺えるであろう.
 
 また, 三女静子の結婚話が持ち上がったときには, 弟子の森本孝治に「(相手は) 大学出たてで薄給であろうから, 印税で得たお金を少々持たせようと思う. こんなことを露骨に言うと若い人の感情を損なうかも知れないが, 親としてはこんな事でもしたくなる」と言ったらしい. 森本が「貨幣は何れは無くなる, 何故, 不朽の宝を持たせないのか」と問うと,「そう言われると実に恥じ入るが, 研究が忙しくて聞法に連れて行くのを怠った」と述懐したという. 「
持つまじき物の多かる世の中に持つまじきもの女の子にこそ」と詠んだのは, この時期であった.
 
 また, 大家族を抱えていた木村素衛が家族扶養のためにアルバイト的な講演旅行を行って病に倒れたとき, 田邊元は学問の大義名分の下に木村を責めたのであるが, 幾多郎は木村に対して深い愛情を注いだという. 幾多郎の書斎で何人かの弟子達が集まって幾多郎の講義を聴いた際にも, 途中で居眠りを始めた木村を幾多郎は怒るどころか優しい表情でそれを見やりながら講義を続けたらしい. ――このような幾多郎に関する逸話は枚挙に暇がない.
 

 
 幾多郎は, 尿毒症を得て76歳で世を去った. 絶筆となった私の論理について』において,「私の論理と云ふのは學界からは理解せられない, 否未だ一顧も與へられないと云つてよい (中略) 私は先づ私の立場から私の云ふ所を理解せられることを求める」と愚痴のように書き綴っていた. 彼は, 死期が迫る中, 何とか自己の哲学的意義を理解してもらおうとして, 憑かれたように仕事に没頭していたわけである.
 
 現在では多くの研究が進み, 西田哲学の歴史的意義もほぼ確立してきている. 同時に, 幾多郎が残した日記や書簡や随筆などは現代においても尚多くの者を感化してやまない魅力を有しているのである. 幾多郎自身は, 哲学者の日記や書簡に見られる私的生活は, 文学者のそれとは異なって大した重要性がないと考えていた. しかし, 幾多郎の書き残したものは全て, 彼の人格を如実に表出するものであり,
我々は今尚幾多郎の人格が強靭に息衝いているを感ずるのである.
 
 定年後の幾多郎は毎日朝のうちに倦むことなく仕事を続けていた. 学問は一旦中断すると元へ戻すことが非常に難しいということを充分に知り尽くしていたのであろう.
幾多郎の仕事は, 我々が生きる上で必要となる根源的な問題を解明するものであった. その内容もさることながら, その飽くなき探求心と強靭な努力の跡に, 我々は心を動かされる. それは即ち, 幾多郎の弟子達を通じて語られた, 教える者と学ぶ者との貴重な人格的触れ合いを生じさせるものであった.
 


 晩年の幾多郎宅 (鎌倉市稲村が崎)
 
 真の教育者たるためには, まず教育者自身が不断の研鑚を積んで深い学力を身に付けなければならず, 同時に高い人格の養成に努めなければならない. このような人格を背景にもたずして, 教育者が多くの者に影響を与えることは不可能であろう. 私は, 教職に就く者として, ことにこの点において幾多郎から多くのものを学ぶべきであると考える. 幾多郎が稀有な哲学者であると称されるのも, 人格的な強さと烈しさ, 鋭さと優しさとを併せもつからこそであろう.
 
 
西田幾多郎は偉大なる哲学者であると同時に偉大なる教育者であった. 幾多郎における「教師像」は, 職業としての教師よりも寧ろ人間としての教師に重きを置くべきであろう. いつの時代においても多くの者を感化してやまない幾多郎は, 多くの者にとって人生の教師と見なすべき存在であったのである.
 

 
資料
京都学派関連人物
北條時敬 (1858-1929) 東大理学部卒. 四高時代の幾多郎の恩師. 後に東北帝大総長, 学習院長.
松本文三郎 (1869-1944) 四高時代から幾多郎の親友. 京大教授. 幾多郎の京大招聘に尽力.
鈴木大拙 (1870-1966) 四高時代から幾多郎の親友. 渡米して禅関係書を英訳. 主著『日本的霊性』
藤岡作太郎 (1870-1910) 四高時代から幾多郎の親友. 東大教授. 若くして病死. 主著『国文学史講話』
山本良吉 (1871-1942) 四高時代から幾多郎の親友. 三高や学習院教授を経て後, 武蔵高校長.
朝永三十郎 (1871-1951) 京大で幾多郎と共に優秀な弟子を育成. 主著『近世に於ける「我」の自覚史』 
桑木厳翼 (1874-1946) 京大教授. 後に東大教授. 幾多郎が後任として京大へ. 主著『カントと現代の哲学』
波多野精一 (1877-1950) 幾多郎の招聘で早大から京大へ. 退官後, 玉川大学総長. 主著『時と永遠』 
天野貞祐 (1884-1980) 京大で幾多郎に師事. 獨協大学初代学長.
田邊元 (1885-1962) 幾多郎の招聘で東北大から京大へ. 京都学派の中心. 主著『懺悔道としての哲学』
九鬼周造 (1888-1941) 東大卒業後パリやドイツに留学. 幾多郎の招聘で京大へ. 主著『「いき」の構造』
久松真一 (1889-1980) 京大で幾多郎に師事. 禅の実践者として仏教的体験を理論解明. 主著『東洋的無』
和辻哲郎 (1889-1960) 倫理学者. 幾多郎の招聘で京大へ. 主著『古寺巡礼』『風土』
三木清 (1987-1945) 幾多郎の愛弟子. 法政大教授. 治安維持法違反で検挙, 獄死. 主著『構想力の論理』
西谷啓治 (1900-1990) 京大で波多野の後任. 京都学派の中心. 主著『宗教とは何か』
高坂正顕 (1900-1969) 京大で幾多郎に師事. 京都学派の中心. 戦後, 占領政策で京大を辞任.
下村寅太郎 (1902-1995) 京大で幾多郎に師事. 数理科学・歴史哲学を研究. 主著『ブルクハルトの世界』
高山岩男 (1905-1993) 京大で幾多郎に師事.『世界史の哲学』が占領政策に触れ京大を公職追放.
鈴木成高 (1907-1988) 京大で幾多郎に師事. 西谷・高坂・高山と共に京都学派四天王の一人.
上田閑照 (1926-2019) 京大で西谷啓治に師事. 京都学派の最後の哲学者.
 

 
幾多郎年表
1870年 (0歳) 5月19日, 石川県河北郡宇ノ気村に父得登・母寅三の長男として誕生.
1883年 (13歳) 石川県師範学校入学. 次姉尚病死. 肉親の最初の死に見舞われる.
1886年 (16歳) 石川県専門学校付属初等中学科 (後に第四高等中学校に改称) に入学.
1888年 (18歳) 北条時敬宅に寄寓し数学を学ぶ.
1889年 (19歳) 松本文三郎, 鈴木大拙, 松本文三郎, 山本良吉と「我尊会」結成. 行状点欠少のため落第.
1890年 (20歳) 第四高等中学校を中退. 眼を病む.
1891年 (21歳) 帝国大学文科大学哲学科に選科生として入学. 哲学を井上哲次郎, ケーベル等に学ぶ.
1894年 (24歳) 帝国大学選科を卒業. 帰郷し得田方に寄寓す.
1895年 (25歳) 石川県尋常中学校七尾分校教諭となる. 得田耕の長女寿美と結婚.
1896年 (26歳) 長女弥生誕生. 第四高等学校講師 (独語担当) 着任. 洗心庵の雪門老師の許で参禅.
1897年 (27歳) 第四高等学校講師を罷免される. 父得登が妻寿美を離縁する. 山口高等学校教務嘱託.
1898年 (28歳) 長男謙誕生. 父得登死去.
1899年 (29歳) 寿美と復縁. 山口高等学校教授, 第四高等学校教授となる. 心理, 論理, 倫理, 独語を担当.
1900年 (30歳) 堀維孝と共に「三々塾」を起こす.
1901年 (31歳) 次男外彦誕生. 雪門老師より「寸心」の居士号を受ける.
1902年 (32歳) 次女幽子誕生. 四高にてファウスト会・ダンテ会を組織し, 輪読.
1903年 (33歳) 『
人心の疑惑』発表.
1904年 (34歳) 弟憑次郎戦死.『
向少佐を憶ふ』『余の弟西田憑次郎を憶ふ』発表.
1905年 (35歳) 三女静子誕生.
1907年 (37歳) 幽子病死. 四女友子, 五女愛子誕生.『
「国文学史講話」の序』執筆.
1909年 (39歳) 六女梅子誕生. 学習院大学教授に就任.
1910年 (40歳) 京都に移住. 京都帝国大学文科大学助教授 (倫理学担当).
1911年 (41歳) 『
善の研究』出版.
1913年 (43歳) 京都帝国大学文科大学教授 (宗教学講座担任).
1915年 (45歳) 『
思索と体験』出版.
1916年 (46歳) 『
読書』を京都府立第一中学校「読書の栞」に寄稿.
1917年 (47歳) 『
自覚に於ける直観と反省』出版.
1918年 (48歳) 母寅三死去.
1919年 (49歳) 妻寿美脳溢血に倒れ以後5年余り病床に着く. 田邊元, 京都大学に助教授として来任.
1920年 (50歳) 長男謙病死.『
意識の問題』出版.
1923年 (53歳) 『
芸術と道徳』出版.
1925年 (55歳) 妻寿美死去. この頃より書幅の揮毫を始める.
1927年 (57歳) 『
働くものから見るものへ』出版.
1928年 (58歳) 京都帝国大学を退職する.
1929年 (59歳) 京都帝国大学名誉教授となる.『
或教授の退職の辞』発表.
1930年 (60歳) 『
一般者の自覚的体系』出版.『暖炉の側から』発表.
1931年 (61歳) 山田琴と再婚.
1932年 (62歳) 『
無の自覚的限定』出版.
1933年 (63歳) 『
哲学の根本問題』出版. 夏冬を鎌倉極楽寺にて過ごすことを始める.
1934年 (64歳) 『
哲学の根本問題続編』出版.
1935年 (65歳) 『
哲学論文集第一』出版.
1937年 (67歳) 『
哲学論文集第二』出版.『続思索と体験』出版.
1939年 (69歳) 『
哲学論文集第三』出版.『アブセンス・オブ・マインド』発表.
1940年 (70歳) 『
日本文化の問題』出版. 第2回文化勲章受賞.
1941年 (71歳) 『
哲学論文集第四』出版. 四女友子死去.
1944年 (74歳) 『
哲学論文集第五』出版.
1945年 (75歳) 長女弥生死去.『
場所的論理と宗教的世界観』『私の論理について』執筆. 尿毒症にて死去.
 

 
参考文献
『西田幾多郎全集』(第4刷) 全19巻, 岩波書店, 1989
上田弥生『わが父西田幾多郎』弘文堂書房, 1948
上田久『祖父 西田幾多郎』南窓社, 1978
上田久『続 祖父 西田幾多郎』南窓社, 1983
上田閑照『西田幾多郎』岩波書店, 1995
上田閑照『西田哲学への導き 経験と自覚』岩波書店, 1998
上杉知行『西田幾多郎の生涯』燈影舎, 1988
高山岩男『西田哲学とは何か』燈影舎, 1988
高山岩男『京都哲学の回想』燈影舎, 1995
高坂正顕『西田幾多郎と和辻哲郎』新潮社, 1964
高坂正顕『西田幾多郎先生の追憶』燈影舎, 1996
西谷啓治 / 他『西田哲学を語る』燈影舎, 1995
下村寅太郎 / 他『西田幾多郎』岩波書店, 1971
下村寅太郎『西田幾多郎 人と思想』東海大学出版会, 1977
下村寅太郎 / 他『西田幾多郎とその哲学』燈影舎, 1985
下村寅太郎 / 他『西田幾多郎の書』燈影舎, 1987
竹田篤司『物語「京都学派」』中央公論新社, 2001
藤田正勝『現代思想としての西田幾多郎』講談社, 1998
藤田正勝『京都学派の哲学』昭和堂, 2001
小坂国継『西田幾多郎を巡る哲学者群像』ミネルヴァ書房, 1997
小坂国継『西田幾多郎の思想』NHK出版, 2000
竹内良知『西田哲学の「行為的直観」』農山漁村文化協会, 1992
新田義弘『現代の問いとしての西田哲学』岩波書店, 1998
『現代思想』第21巻1号「特集 西田幾多郎」青土社, 1993
『波多野精一全集』(第2刷) 第6巻, 岩波書店, 1989
石原謙 / 他『宗敎と哲學の根本にあるもの』(第2刷) 岩波書店, 1997
倉田百三『愛と認識との出發』岩波書店, 1993
 
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